Jをめぐる冒険BACK NUMBER
空白の9カ月から始まった“中村俊輔のオシムジャパン”「一緒にW杯を戦いたかった」「オシムさんには未だに考えさせられている」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byKiichi Matsumoto
posted2022/11/20 11:04
先日、現役引退を発表した中村俊輔。オシム監督が発した言葉の意味を今も考え続けている
一方、オシムは07年2月の記者会見で、こう語っていた。
「ジョーカーをゲームの最初のほうに出してしまうのはよい手ではない。切り札というのは適切な時に使えるようにとっておくのが一番いい」
ジョーカーとは、俊輔を筆頭とする欧州組のことだ。オシムは俊輔を就任当初から重要なメンバーとして考えていた。
それはオシムジャパンの6試合目。アジアカップ予選のアウェイゲームでインドに旅立つ直前のことである。帰国中の俊輔が成田のホテルに泊まっていたため、オシムはコーチの反町康治やフィジカルコーチの里内猛らに伝言を託し、俊輔のもとに向かわせた。
「来年3月の親善試合には呼ぶつもりだ」と。ただし、「セルティックで活躍し続けていれば」という前提条件を加えることも忘れなかった。
もちろん、オシムに言われなくとも、日々の努力を怠る俊輔ではない。この空白の9カ月間に、俊輔は大きな仕事を成し遂げている。
マンチェスター・ユナイテッド戦で、2試合続けて直接FKからゴール――。
オールドトラフォードでファン・デル・サールを呆然とさせ、セルティックパークでスタンドを揺らした世紀の2ゴールは、今なおチャンピオンズリーグの名場面のひとつとして語られている。
以前のように代表活動で欧州と日本を往復し、中東遠征に参加していたとしたら……。果たしてこれらのゴールは生まれていただろうか。
翌日の新聞で知ったオシムの苦言
オシムジャパンに初招集された07年3月のペルー戦で、俊輔はオシムのトレーニングに初めて触れた。難解なルールに困惑する選手は多いが、俊輔が困惑することはなかった。事前に遠藤から聞いていたおかげでもあるが、もとより俊輔自身が頭を使ってサッカーをやってきたからだ。
「試合の局面を切り取ったような練習が多くて、判断力を養っていく感じ。そもそもフォーメーションなんてないし、戦術ボードも使わず、選手とめちゃくちゃ喋るわけでもない。ずっと試されているというか、常に考えさせられる。こっちが工夫してプレーすると、『ブラボー!』ってオシムさんが言うから、これはオーケーなんだって。『ブラボー!』ってなかなか言ってもらえないと、これは違うのかなって、いろいろ考えながらやっていた」
ペルー戦は2-0で勝利したが、巻誠一郎と高原直泰の2ゴールは俊輔の左足によってもたらされたものだった。
オシムは試合後の記者会見で俊輔を褒めた。
「彼はマラソン選手ではない。だが、以前よりは長い距離を走れるようになった。それからアイデアのある選手であることは、みなさんよくご存じだろう」
だが、続けてこう苦言を呈したのだ。
「彼の改善点を教えるとすれば、プレースピードを上げること。彼ならできるはずだ。何か特別なことをやろうという気負いがあった。すべてのパスがナイスパスとなることを狙っていたのかもしれない。いつも天才であろうとすると、結果は無惨なものになる」
俊輔はその言葉を、翌朝のスポーツ紙の紙面で知った。
「え? と思ったよ。協会の人にも電話したから。不満に思っているなら、直接言ってくれればいいのにって。ただ、そのあと冷静に振り返ってみると、後半に狙ったスルーパスが3本くらいカットされていた。そのことを指摘したのかなって。あと、ああやって俺の名前を出すことで、チーム全体に伝えたのかもしれないなって」
実際、オシムが俊輔のことを信頼していないわけではなかった。
07年6月のコロンビア戦では俊輔が自陣でボールを奪われ、決定的なピンチを招いたが、ハーフタイムのロッカールームで「あれはナカムラのせいじゃない。周りがもっと動いてパスをもらわないといけない」と説いた。
また、7月のアジアカップを前にしたポジション別ミーティングで俊輔がテーマになったこともある。
なぜ、ナカムラはセルティックで飛躍的に成長を遂げたのか――。
オシムはまず「イタリア時代よりも走る量が増えた」と述べたうえで、「守り方がうまくなった。1対1でスライディングでボールを奪うなどの局面の守備だけではない。守備に入る前の動き、ポジショニングが格段に良くなった」と評したのだった。
「そういうことを直接言ってくれないから、信頼してくれているのかどうか分からないんだよ(苦笑)。でも、1回だけ直接褒められたことがあって……」