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空白の9カ月から始まった“中村俊輔のオシムジャパン”「一緒にW杯を戦いたかった」「オシムさんには未だに考えさせられている」
posted2022/11/20 11:04
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Kiichi Matsumoto
11月10日、横浜市内のホテルで稀代のレフティ、中村俊輔の引退会見が行われた。
会見場の後方のスペースには、これまで俊輔が身にまとってきたユニフォームがずらりと展示されていた。
横浜マリノス、レッジーナ、セルティック、エスパニョール、横浜F・マリノス、ジュビロ磐田、横浜FC、そして日本代表――。
とりわけ日本代表のユニフォームを見ていると、その時代ごとの俊輔のプレーがありありと浮かんでくる。
空白の9カ月「嫌われているのかな」
初めて日本代表に選出されたのは、プロ2年目となる1998年2月のオーストラリア合宿だった。フランスW杯本大会を前に、新戦力の発掘を目論む岡田武史監督から声がかかったのだ。
フィリップ・トルシエ監督時代に日本代表に定着し、続くジーコ監督からは10番を託され、2006年ドイツW杯に出場。自身2度目のW杯となった10年南アフリカ大会を最後に、青のユニフォームを脱いだ。
こうして日本代表の成長期を主軸として駆け抜けた俊輔には、一時的に代表メンバーから外れた時期がある。
空白の期間とも言うべき9カ月――。
ドイツW杯グループステージ最終戦のブラジル戦から、07年3月のペルーとの親善試合までの期間である。
俊輔だけではない。ドイツW杯終了後に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムはその間、欧州組を一切招集しなかった。
「なんで呼ばれないんだろうな、っていうことは考えていた。嫌われてるのかな、とか(笑)。全然走らないヤツだと思われていたのかもしれない。そういうタイプじゃないんだけどね」
俊輔はオシムジャパンの動向が気になって仕方がなかったという。親友の遠藤保仁に連絡を取り、どんなトレーニングをしたのか、指揮官がどんな指示を出し、どんな反応を見せたのかを聞き込んだ。