Jをめぐる冒険BACK NUMBER
週刊誌を騒がせた「釜本邦茂との確執」の真相…永島昭浩が明かす、愛するガンバとの離別と大震災に見舞われた故郷・神戸への電撃加入
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byEstuo Hara/Getty Images
posted2022/10/31 11:03
ガンバ大阪、清水エスパルス、ヴィッセル神戸とクラブを渡り歩いた永島昭浩。2000年に現役引退、セレモニーではかつて日本代表でもプレーした三浦知良から花束が贈られた
エスパルス加入1年目は、28試合に出場して8ゴールに終わった。
そして加入2年目のプレシーズンに、その日を迎えた。
95年1月17日、前日に海外ロケの仕事から帰国し、深い眠りについていた永島を叩き起こしたのは、クラブ関係者からの電話だった。
「なんやと思ったら、『起きろ! 神戸が地震で大変だぞ』と」
その日の5時46分、兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災が起きたのである。
「実はその夜、地震の夢を見ていたんです。だから、夢の続きなのか、現実なのか最初はよく分からなかったんです」
残念なことに、地震は現実だった。テレビをつけて、慌てて神戸に住む両親、兄、姉に連絡したが、電話はながらなかった。
すぐに神戸に向かおうとしたが、新幹線はストップし、飛行機も満席だった。静岡からなんとか名古屋まで出て、そこから私鉄で難波まで行き、ガンバ時代のチームメイトである和田昌裕に車を借りて、実家のある須磨へと向かった。
しかし、渋滞のため車はまったく動かない。
永島がようやく須磨に辿り着いたとき、時刻は深夜2時を回っていた。
そこで永島が目にしたのは、まるで映画のようなシーンだった。
「街灯ひとつなくて、道もあちこちで陥没していて、瓦礫の上を歩いていくという。真っ暗闇のところどろこで炎が燃えていて、その炎で周りの様子が理解できるような状況。これ、現実なんかなと。母校の中学校が避難所になっていて、そこを訪ねたら、両親は病院に運ばれて命は無事だと。
翌日から車で山を越えた先のコンビニまで行って買えるだけの食料を買って避難所に届ける、ということを1週間くらい、毎日何度も繰り返しました。3日目くらいやったかな、兄の家に寄ってお風呂に入ったとき、40度くらいなのに、めちゃくちゃ熱いんです。それだけ体が冷え切っていたんです」
ヴィッセル神戸からのオファー
1週間ほど救助活動を行ったあと、清水に戻ってエスパルスでの2年目のシーズンをスタートさせた永島にJFL(J2に相当)のヴィッセル神戸からオファーが届くのは、地震発生から約4カ月後の5月下旬のことだった。
川崎製鉄水島サッカー部が母体のヴィッセル神戸は、Jリーグ入りを目指して95年1月1日から正式に始動し、まさに初練習が予定されていた1月17日に被災した。
ただでさえ、まともに練習ができない状況に加えて、3月1日には最大株主であるダイエーの撤退に見舞われる。5月7日に開幕したJFLでは1勝3敗と苦戦を強いられていた。
永島がオファーを受けたのは、そんな頃だった。
「実は震災前にもオファーをもらっていたんです。ぜひ神戸に力を貸してほしいと。でも、エスパルスに移籍したばかりだったし、自分はまだまだJリーグでやれると。それで断ったんですけど、震災が起きて、再オファーをいただいた。このときは、神戸のために頑張りたいと思いました。
エスパルスにも『永島くんの決断を尊重する』と言っていただいて。エスパルスはレンタル移籍を提案してくれたんですけど、中途半端な気持ちでやってもダメなので、完全移籍を容認してもらいました」
こうして95年6月1日、永島は白と黒のストライプのユニホームに袖を通す。
背番号は51――。同じ神戸を本拠地とする、プロ野球のオリックス・ブルーウェーブのイチローと同じ番号を選んだ。
「友人に勧められましてね(笑)。イチロー選手がすごく活躍していたので、自分もあやかりたいな、同じように活躍したいなと思って51にしました」