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週刊誌を騒がせた「釜本邦茂との確執」の真相…永島昭浩が明かす、愛するガンバとの離別と大震災に見舞われた故郷・神戸への電撃加入 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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photograph byEstuo Hara/Getty Images

posted2022/10/31 11:03

週刊誌を騒がせた「釜本邦茂との確執」の真相…永島昭浩が明かす、愛するガンバとの離別と大震災に見舞われた故郷・神戸への電撃加入<Number Web> photograph by Estuo Hara/Getty Images

ガンバ大阪、清水エスパルス、ヴィッセル神戸とクラブを渡り歩いた永島昭浩。2000年に現役引退、セレモニーではかつて日本代表でもプレーした三浦知良から花束が贈られた

 しかし、震災による出遅れが響いた。永島自身も左足首の故障などがあり、万全なコンディションではなかったため、チームは1年でのJリーグ昇格を逃してしまう。

 迎えた2年目の96年、永島は心機一転、背番号を13番に変更する。

 これは、永島が御影工業高2年で全国大会に出場したときの番号であり、高校を卒業して初めてJSL(日本サッカーリーグ)のピッチに立った際の背番号でもある。

 その後、ヴィッセルの13番はエース番号として播戸竜二や大久保嘉人、小川慶治朗に受け継がれていく。

「クラブがそういうふうに(エース番号として)作ってくれたんだと思います。めちゃめちゃ嬉しいですよね。本当にありがたい」

 さらに、クラブは本気でJリーグ昇格を成し遂げるべく、夏にレアル・マドリーから超大物外国籍選手を獲得する。

 元デンマーク代表で、ユベントスやバルセロナでもプレーしたMFミカエル・ラウドルップである。

「彼は難しいことは要求しなかった。どんな準備をして、どこにポジションを取るかだけ。彼は『(ミシェル)プラティニと組んでいたときと同じことを考えている』と。選択肢はたくさんいらないんです。まずロジックがあって、そこからアイデアが生まれる。限られた選択肢の中から何を選ぶか。僕がそれを間違えなければ、必ずいいボールが出てくる。いやあ、凄かったです。ラウドルップとプレーしていると、少年のような気持ちになれた。毎日がワクワクして(笑)。世界ってこういうことなんやなと」

 96年シーズン、永島はJFLで17ゴールを叩き出してチームをJリーグへと導くと、97年シーズンには33歳にしてキャリアハイとなる22ゴールを決め、復活を印象付ける。

「間違いなく、ラウドルップのおかげですね」

現役ラストマッチでVゴール、カズから花束

 そんな永島にも、スパイクを脱ぐ瞬間がやってきた。

 ラストマッチは2000年11月26日のJ1リーグ2ndステージ第15節の京都パープルサンガ戦だった。

「まだまだできると思っていました。でも、鎖骨を骨折したりと怪我が重なって、肩を叩かれたような気がしたんですね。もうええやろ、と。クラブからは何度も『本当に辞めるのか』と確認されましたけど、自分としては潔い決断だったと思います」

 ベンチスタートだった永島に出番が訪れたのは、後半だった。そして、延長前半1分、左からのクロスを頭で突き刺し、ラストゲームを自らのVゴールで飾ってみせる。

 京都のエース・三浦知良は永島がゴール裏に向かってガッツポーズを繰り返し、歓喜の輪が生まれる様子を呆然と見つめていた。千両役者のカズのお株を奪うような役者ぶりだった。

 試合後、かつて日本代表で2トップを組んだカズから花束を手渡され、17年に渡った現役生活に幕を降ろした。

 スパイクを置いた永島には、はっきりとした将来のビジョンがあった。

「優先順位の一番は監督になることでした。監督として勝負したいと周りにも伝えていたんです。解説の仕事もその準備の一環で」

 ところが、運命は永島を思わぬステージへと導いていく。

「いやあ、まさか娘と共演することになるなんて、思いもしませんでした(苦笑)」

(つづく)

#3に続く
「まさか娘がフジテレビに…」永島昭浩が語る安藤優子に鍛えられたキャスター時代とW杯親子共演「コネ? 僕にはそんな力はない(笑)」

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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