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週刊誌を騒がせた「釜本邦茂との確執」の真相…永島昭浩が明かす、愛するガンバとの離別と大震災に見舞われた故郷・神戸への電撃加入
posted2022/10/31 11:03
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Estuo Hara/Getty Images
1993年5月に日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが開幕すると、初のW杯出場を目指す日本代表人気と相まって、日本列島は空前のサッカーブームに沸いた。
Jリーグの観戦チケットはプラチナ化し、Jリーガーはアイドル並みの人気を誇った。三浦知良、武田修宏、北澤豪、井原正巳、福田正博、長谷川健太、澤登正朗、森保一……。
彫りが深く、端正な顔立ちの永島昭浩もそのひとりだった。
「イベントや営業で大阪に限らず、九州に行ったり、いろんなところに行ったんですけど、すごい騒ぎようなんです。最初は誰に騒いでいるのかなって。あ、俺かと(笑)。世の中、ちょっとおかしいぞと思うくらいでした。当時、すでに結婚していて、娘もいたんですけど、女子高生から『私と結婚してください』というファンレターが届いて、どう返事したらいいものか(苦笑)」
孤軍奮闘9ゴールも、徐々に出場機会を失う
松下電器産業を前身とするガンバ大阪は、5月16日に行われた浦和レッズとの開幕戦に1-0で勝利し、幸先の良いスタートを切ったが、その後は4連敗を喫するなど、低迷を余儀なくされる。
チームの前線に立つ当時29歳の永島は、6月5日の名古屋グランパス戦で日本人初のハットトリックをマーク。サントリーシリーズ(第1ステージ)では9ゴールを奪い、孤軍奮闘していた。
しかし、ニコスシリーズ(第2ステージ)に入ると、チームの不調に引っ張られるように永島の活躍にも陰りが見え始める。ラスト5試合は先発から外れたうえ、最後の3試合は出場機会すらなく、3ゴールにとどまった。
チームを率いる釜本邦茂は、自身が日本を代表する大ストライカーだったから、点取り屋としての永島の働きに物足りなさを覚えたのかもしれない。
スポーツ紙や週刊誌は、指揮官とエースの確執を騒ぎ立てた。そして永島に、清水エスパルス移籍の話が持ち上がる。
29年が経った今、永島は改めて確執を否定する。