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中田英寿、小野伸二、稲本潤一…才能の惑星直列のごとき日本代表が躍進した日韓W杯と、ソウルのウォーターベッドの記憶
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近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2022/10/11 11:00
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稀代の才能が集結した2002年の日本代表の中で、ひときわ強い輝きを放った中田英寿(右)と小野伸二
日本と韓国、W杯史上初となる二カ国共催となるまでには紆余曲折あった。1989年、最初に候補地として名乗りを上げたのは日本で、その数年後に韓国も正式に立候補した。韓国はすでにW杯に何度も出場し、日本はいまだW杯は未経験。実績から言えば韓国、でも先に手を挙げたのは日本。当時のFIFA会長ジョアン・アベランジェは日本単独開催を推し進めたがったが、長期にわたってFIFAを牛耳ってきたこの老獪なブラジル人に欧州の理事たちは反発し、アフリカ諸国の票を韓国へと取り付けた。欧州勢に対して勝ち目がないと見たアベランジェは最後の最後でこれまでの主張を翻し、自ら日韓共同開催を宣言することになった。
とまあ、政治的な生臭い話はどうでもよくて、古いサッカーファン、我が国のサッカーがどうしようもなく弱かった時代を知るファンにとっては絶対にあり得ない出来事、日本という国でW杯(の半分)が催されることになったわけである。
便利で奇妙な自国開催
だが、自宅から出かけるW杯、それはある意味で便利ではあるけれど、奇妙な体験だった。当時、僕は東京都世田谷区に住んでいて、そこから小田急とJRと埼玉高速鉄道を使って埼玉スタジアムへ行き、新幹線に乗って仙台や新潟や大阪へ行った。メキシコではアステカスタジアムに向かう途中でタコスを食べ、イタリアではサンシーロでの試合前にピッツァを食べたが、今回は長居スタジアムからの帰り道、新大阪駅で551の豚まんを買って帰ることになった。横浜にあったメディアセンター内の売店では、おにぎり(梅とシャケと昆布)とサンドイッチしか売っておらず、外国からの記者やカメラマンは困惑していた。梅と昆布が食べられる外国人はあまりいない。
ピッチの中に目を向けると、こちらでも困惑するような出来事の多いW杯だった。アジア特有の湿度にヨーロッパ系の選手は四苦八苦。フランス、ポルトガル、アルゼンチン、三つの優勝候補がグループリーグで早々に姿を消した。
共催国・韓国は、ポルトガル、ポーランドそしてアメリカという相当厄介なグループを見事一位で通過していた。オランダの名将フース・ヒディンク監督(4年後にはオーストラリア代表監督として日本の行く手に立ち塞がった)は韓国を本当にタフなチームに仕立て上げた。しかし決勝ラウンドに入ってからは、スペイン、イタリアを下してベスト4に進出したものの、レフェリーのとんでもないミスジャッジに助けられ続けたという印象が強くなってしまう。ちなみに、イタリア戦の笛を吹いたエクアドル人審判バイロン・モレノはその8年後、ニューヨークの空港でヘロインの大量保持で逮捕され、30カ月の懲役刑を受けている。