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「ほとんどが想像ですよ」武藤敬司、長嶋、新庄…神奈月56歳が“正統派ものまね”を捨てたワケ「似てる、似てないだけじゃ判断させない」
posted2022/08/10 11:02
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Shiro Miyake
――神奈月さんがものまねをやり始めたきっかけはなんだったんですか?
神奈月 もともと学生時代に先生のものまねとか、テレビで観たタレントのものまねをしていて、それがきっかけですね。
――芸能の世界に入る時から「ものまね芸人になろう」と思っていたんですか?
神奈月 いや、僕は「ものまね芸人」ではなく「ものまね“も”やるタレント」になるつもりだったんですよ。僕の幼少の頃のものまね番組は、歌手や俳優のスターがかくし芸的にものまねを披露する番組がほとんどで、ものまねのプロみたいな枠がなかったんですね。一方でお笑いの一部分にものまねがあって、そのものまねがウケて有名になったら、ものまねをメインではやらないバラエティタレントになる人が多かった。ものまねは、売れるためのきっかけとしてやっていた時代だったんです。
若き神奈月の苦悩「俺、どっちに行こうかな…」
――たしかに、たとえば片岡鶴太郎さんなんかも当初はものまねのイメージが強かったですからね。
神奈月 それが変わっていったじゃないですか。バラエティのタレントになって、役者もやってという感じに。だから僕も東京に出てきてものまねでお笑いライブに出始めたとき、「今はものまねが100%かもしれないけど、その割合を少しずつ減らしていったほうがいいよ」っていうのは、お笑いの作家さんや先輩たちからも言われていたんです。ところが、僕が上京して芸人をやり始めたあと、ものまね四天王(コロッケ、清水アキラ、栗田貫一、ビジーフォー)によるものまねブームが起こって、そこから変わっていくんですよ。
――80年代末から90年代にかけてのものまねブームはすごかったですもんね。テレビの視聴率も30パーセントを超えたりして。
神奈月 ただ、その時も「ものまねのプロ」と呼べる人は四天王くらいで、あとはタレントさんだったり、お笑いの人だったりしたんですよ。ダチョウ倶楽部さんやピンクの電話さんとか。
――たしかにそうでした。
神奈月 だから四天王の人たちがブームを作ったことで、ものまねタレントの需要が一気に増えて、ものまねのプロの人たちが少しずつ増えたことで、「お笑いの中のものまね」ではなく、「ものまね」自体が独立したジャンルとして確立されていったんです。ただ、自分としては複雑な心境だったんですよ。ものまねをとっかかりとして好きでやっていたものが、ひとつのエンターテイメントとして確立されちゃったことによって、「俺、どっちに行こうかな……」と。