Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
《25年前のダービー》「(皐月賞は)フロックだと言われましたが、正直、ぼくもそうかな、と」大西直宏の騎手人生を変えた“18番”のサニーブライアン
posted2022/05/26 06:00
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph by
Hisae Imai
1997年春の牡馬クラシック戦線は実に混沌としていた。前哨戦をざっと振り返ると、きさらぎ賞はヒコーキグモ、共同通信杯はメジロブライト、弥生賞はランニングゲイルが優勝。4勝馬が不在で迎えた皐月賞で1番人気に支持されたのはメジロブライトだったが、11番人気のサニーブライアンの逃げ切りという波乱で幕をあけた。
ダービーでも、押し出されるような感じでメジロブライトが1番人気になり、武豊のランニングゲイル、京都4歳特別を差し切ったシルクジャスティス、プリンシパルSを勝ったサイレンススズカと人気はつづいたが、またも勝利の女神はスペシャルな答えを用意していた。
前記の馬たちのほか、のちに菊花賞を勝つマチカネフクキタルなど、実は超豪華メンバーが揃っていた混戦クラシックの主役だったのは、大西直宏が全レースで手綱をとったサニーブライアンだった。
「自分が一番外から出ればいい」
サニーブライアンは96年10月5日、東京芝1800mの3歳新馬戦でデビューし、逃げ切り勝ちをおさめた。調教の段階では「普通の馬」だったというが、このとき初めて大西に、将来オープン馬になりそうな手応えを感じさせた。しかし、2戦目以降は5、7、5着と負けつづけた。
「突き抜けそうな素質は感じられなかったし、見込み違いだったのかな、と。普段はうるさいところがあったけど、レースでは乗りやすかった。折り合うし、操作しやすく、楽に好位につけられる。ただ、そこから伸びても、瞬発力が足りないんです」
97年の年明け初戦の若竹賞は好位からの競馬で2着。同じような競馬をして結果が出なかったので、つづくジュニアCで逃げてみたところ、2勝目を挙げた。次走の弥生賞でも逃げようとしたのだが、中舘英二のスーパーマクレガーにハナを奪われ、好位からの競馬で3着になった。
「外から中舘君の馬に先に行かれたので、内でじっとするしかなかった。逃げられなかったのは不本意でしたが、トライアルで3着ならよしとしなければ、という感じでしたね。次の若葉Sでも、また中舘君の同じ馬にハナを切られて4着に負けた。ゲートからのダッシュは速いタイプではなかったんです」
弥生賞は4番、若葉Sは1番という内枠からの発走だった。外から速い馬に行かれたら、こちらは手綱を引いて控えざるを得ない。どうしたら、この馬でじわっと先頭に立つことができるのか。そう考え、達した結論は、「自分が一番外から出ればいい」というものだった。