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《12年前のダービー秘話》「新馬戦は負けるかもしれないけど…」エイシンフラッシュが“破格の末脚”で勝利、結実した“我慢の馬づくり”とは

posted2022/05/26 11:00

 
《12年前のダービー秘話》「新馬戦は負けるかもしれないけど…」エイシンフラッシュが“破格の末脚”で勝利、結実した“我慢の馬づくり”とは<Number Web> photograph by Keiji Ishikawa

2010年の日本ダービーを制したエイシンフラッシュと内田博幸騎手。上がり3ハロン32秒7という破格の末脚を繰り出して力強く差し切った

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井上オークス

井上オークスOaks Inoue

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Keiji Ishikawa

馬術をベースとした独自の調教理論を構築し、開業からわずか3カ月でダービーの舞台に立った。9年目で叶ったエイシンフラッシュでの勝利は、デビュー戦から組み立てた緻密な“計算”の賜物だった。Sports Graphic Number 1003号(2020年5月21日発売)「“馬乗り”の矜持 藤原英昭『結実した我慢の馬づくり』」をWeb公開します(肩書きなどはすべて当時)。

 1983年。高校3年生のときに見た日本ダービーが、強く印象に残っている。藤原英昭少年の父・玄房は腕利きの厩務員であり、皐月賞で2着だったメジロモンスニーを担当していた。追い込み馬のモンスニーはダービーの直線でも、鋭く脚を伸ばした。しかし先に抜け出した皐月賞馬、ミスターシービーをとらえることができず、ダービーでも2着だった。

「ダービーを勝てなくて残念でしたが、ミスターシービーは本当に強かった」

 のちにミスターシービーは菊花賞も制し、三冠を達成した。その翌年、藤原少年は京都の同志社大学に進学。馬術競技のスター選手として活躍しながら、こんなビジョンを描いていた。

「今は馬術を通じて、馬に関する知識や技術を身につけよう。それを将来、競馬の世界で発揮するための下準備や」

 当時、競馬界と馬術界の間には、大きな隔たりがあった。

「日本では馬が身近な存在ではないから、今でも馬術と競馬を別物と考える人が多いですね。逆に馬と一緒に暮らしてきた騎馬民族は、『乗馬も競走馬も、同じ馬』と考える。世界のスタンダードは後者です」

「ダービーに馬を出すことは、一番の広告になる」

 藤原は大学卒業後、星川薫厩舎の調教助手を経て、調教師免許を取得し、2001年3月、35歳で厩舎を開業した。そして初出走初勝利。さらに開業2カ月後に、星川厩舎から引き継いだ3歳馬テンザンセイザで京都新聞杯を制し、重賞初勝利を挙げた。

「ダービーはみんなの目標であり、みんなが注目しているレース。だからダービーに馬を出すことが、一番の広告になる。名前を売ることができるわけです。だからテンザンセイザという力のある馬を託されて、馬主さんと馬に貰ったチャンスを生かすことは、自分にとって大きな仕事でした」

“世界のスタンダード”を目指す、気鋭の新人調教師。しかし当時の藤原は無名であり、ツテも乏しかった。

「どんなに理路整然と馬づくりを語ったところで、結果がすべてなんです。だから『なんとしてもテンザンセイザをダービーに出す』という気持ちで、スタッフ一丸となって、ダービー出走を目指しました。必死やったなあ」

 そして藤原厩舎は開業からわずか3カ月で、所属馬をダービーに送り出した。勝ったのはジャングルポケット。テンザンセイザはしっかり見せ場を作って6着だった。

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