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「これを練習したのは僕だけだ」EURO76決勝のPKで伝説を作ったアントニン・パネンカ本人が明かす“パネンカ”誕生秘話
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フランス・フットボール誌France Football
photograph byL’Équipe
posted2021/10/31 17:00
伝説を生んだEURO76決勝のPK。この直後、西ドイツGKのゼップ・マイヤーは唖然とすることになる
それがPKのみに限られるようになるのは、さらに9年後の92年8月11日発売のFF誌2418号において、マリオ・アルバノ記者がルディ・フェラー(マルセイユ)の蹴ったPKを「パネンカ流の一撃」と評してからだった。そこから徐々に《パネンカ》が定着していった。チップキックによるPKを単に《パネンカ》と呼んだのは、翌年10月発売のFF誌2481号におけるナシオナル2(4部リーグ)の試合レポートが最初である。
以上からわかるように、《パネンカ》と命名されたのもまた《パネンカ》として認知されたのも、パネンカが大舞台でこのキックを披露してからかなり時間がたってのことである。とはいえパネンカ自身は、自らの名前がサッカーの歴史に残ることに大きな誇りを感じている。
「インタビューのたびに謝礼を100ユーロでも請求していたら、僕は今ごろ億万長者になっていただろう」とパネンカは言う。
45年前の1976年6月20日、アントニン・パネンカは、西ドイツ対チェコスロバキアのEURO決勝で画期的なPKの蹴り方を世界に示した。FF誌7月10日発売号では72歳になるパネンカが、その誕生秘話をアレクシス・メヌージュ記者に語った。もちろん謝礼は要求せずに。
(田村修一)
PK練習中のひらめき
あれはその場の思いつきなどではなかった。大会(EURO76)が始まる2カ月前に、もしも自分がPKを蹴ることになったら、あのやり方でやろうと決めていた。すべてのチームメイトにも伝えたし、テクニカルスタッフも全員が――ドクターやマッサーまで誰もが知っていた。ほぼ2年の間、僕は練習であの蹴り方を繰り返していた。思いついたのはボヘミアンズ・プラハ(パネンカが育成年代を過ごし、プロとしても1967~81年の間プレーしたクラブ。今日、彼は同クラブの会長を務めている)で、チームメイトで優れたGKだったズデネク・フルシュカとPKの練習をしているときだった。
練習を終えた後で、僕らはいつもPKで対決した。5回蹴って5回成功すれば僕の勝ち、ひとつでも外せば負けで、チョコレートや一杯のビールなどちょっとしたものを賭けていた。それでも僕は負けてばかりで……、彼がだいたい1度か2度は止めていた。僕は彼を驚かせ、絶対に止められない蹴り方を考えつかねばならなかった。それであの蹴り方を思いついた。