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「これを練習したのは僕だけだ」EURO76決勝のPKで伝説を作ったアントニン・パネンカ本人が明かす“パネンカ”誕生秘話 

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posted2021/10/31 17:00

「これを練習したのは僕だけだ」EURO76決勝のPKで伝説を作ったアントニン・パネンカ本人が明かす“パネンカ”誕生秘話<Number Web> photograph by L’Équipe

伝説を生んだEURO76決勝のPK。この直後、西ドイツGKのゼップ・マイヤーは唖然とすることになる

 それに西ドイツは試合に負けたから落ち込んだのであって(延長戦で2対2。PK戦は5対3でチェコスロバキアの勝利)、僕のやったことに腹を立てていたわけじゃない。その証拠に試合後にホテルでおこなわれたレセプションでは、西ドイツの選手たち(フランツ・ベッケンバウアーやウリ・ヘーネス、ベルティ・フォクツ、ライナー・ボンホフら。ゼップ・マイヤーだけは仏頂面で片隅に佇んでいた)と一緒にビールを飲んだ。雰囲気はとても和やかで、彼らの態度は超一流選手の名に相応しく王者の威厳に満ちていた。ただ、試合前に彼らは、問題なく勝てると考えていただろう。ところが現実はそうはならなかった。それが彼らにどれほどの衝撃を与えたかはわからないが。

 今から10年前にプラハのドイツ大使館で、35年前のチェコスロバキアの勝利を祝うレセプションが開かれた。その式典にはゼップ・マイヤーとディーター・ミュラーも出席した。僕らは一緒にビールの杯を重ね、とてもリラックスした雰囲気でゴルフに興じた。時間が彼らの苦い記憶を消し去った。マイヤーも僕にとても愛想がよかった。彼があの試合の悪夢を払拭したこと、そしてもう怒ってはいないことを実感できた。

サッカーの歴史に刻んだ刻印

 今日でも世間の人々が僕にする最初の質問は、あのPKを実際にどうやって蹴ったのかということだ。プラハでもウィーンでも(パネンカは1981~85年にラピード・ウィーンでプレー。その後小さなクラブを転々とし93年に引退した)そのことを常に尋ねられた。ジネディーヌ・ジダンやフランチェスコ・トッティ、リオネル・メッシ、ズラタン・イブラヒモビッチといった偉大な選手たちが、僕と同じやり方でPKを蹴るのを見るとき、計り知れない名誉を感じる。僕のPKが、別の時代の別の選手たちにも蹴られているのはとても幸せなことだ。たったひとつの所作で、僕がサッカーの歴史に刻印を刻んだ証に他ならないからだ。

 もし僕が、EURO76決勝でのPKについてのインタビューの謝礼としていつも100ユーロを要求していたら、今ごろは大金持ちになっていただろう(笑)。いずれにせよ僕はあのキックを蹴って、ひとつの痕跡を残せたことを誇りに思っている。今日でもあのキックはしばしば話題になる。それは僕がサッカーのレジェンドになったことの証明でもある。世界の誰もがあのキックについて語っているのは本当に名誉なことだ。《パネンカ》が何を意味するのか、今では知らない人はほとんどいないのだから。

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アントニン・パネンカ

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