ボクシングPRESSBACK NUMBER
「なぜバラバラだったボクシング団体は統一できた?」“教師を殴ってアメリカ留学した男”から始まる日本ボクシングの歴史
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/09/27 17:05
写真は1929年の明治神宮競技大会でのボクシング。神宮相撲場で行われた
男の名は渡辺勇次郎。米国から15年振りの凱旋である。彼の帰国から、日本の近代ボクシングが始まったと言っていい。
1889年、栃木県矢板村(現・矢板市)生まれ。旧制真岡中四年生のときストライキを指揮し、教師を殴って放校されたのを機に米国留学に旅立つ。「語学研究」と本人は書き残すが、日露戦争に勝った時代の空気もあったのかもしれない。もちろん、実家が裕福だったことも無関係ではなかったはずだ。
しかし、降り立ったサンフランシスコは少年を歓迎しなかった。折からの黄禍論で行く先々で差別され、暴力まで被った。そこで出会ったのがボクシングだった。習得しようと考えたのは、何より自衛のためだろう。
とはいえ、月謝30ドルを払う余裕はなく、そうでなくても、日本人留学生を迎えてくれるジムはどこにもなかった。そこで、貨物船のコックになって、ボクサーあがりの水夫から直接教わった。基礎を叩きこまれると、黒人ボクサーの経営するジムに入門し、半年後、晴れてリングに立ったのである。
渡辺勇次郎の実力は如何ほどだったか。「デビュー以来16戦無敗」という記述もあれば「50戦無敗」「カリフォルニア州ライト級王座に就いた」という話もある。はっきりしているのは、33歳で帰国した際、懐に現金4000円(現在の価値で約2000万円相当)があったことだ。ただし、本人はこれを「親の遺産」と書き残している。
「目黒」にボクシングジムを開いた理由
帰国してすぐ渡辺は、目黒の権之助坂に本格的ボクシングジム「日本拳闘倶楽部」を開いた。目黒を選んだ理由は「black eye」すなわち「(殴られて出来た)眼の周りの黒い痣」=「拳闘に不可分の関係にある」と解釈したからだった。後年、野口進の率いる野口拳闘クラブが、奇しくも同じ目黒の地に開設されたのは、右翼界隈の煩瑣な事情によるもので渡辺とは無関係だが、目黒は「日本ボクシングの聖地」と言っていいのかもしれない。
「道場を開いて月謝収入を見込みながら、会員が集まった暁には興行を行って大金を稼ごう」──それが渡辺の算段だったが、うまくいかなかった。とにかく会員が集まらないのだ。
そこで翌年、搔き集めた1万円(現在の価値で約5000万円相当)で米国人を招聘し「国際純拳闘試合」を開催する。大々的に興行を打つことで大衆の興味を惹こうとしたのである。
日本陣営は渡辺勇次郎を筆頭に、郡山幸吉、荻野貞行、横山金三郎、田中禎之助。対する米国陣営はヤング・ケッチェル、スパイダー・ローチ、ネルソン、ラファイエット。しかし興行的には苦戦を強いられ、郷里に近い宇都宮でも客入りは芳しくなく、大赤字を負ってしまう。
2団体時代「東日本は渡辺、西日本は嘉納」
ここで現れたのが、神戸やくざの嘉納健治だった。前稿でも詳述したように、柔拳興行を大当たりさせていた嘉納は、大阪と神戸での興行を支援することで、飽きられつつあった柔拳に代わる新しいシノギとして純拳闘興行に着目したのである。