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「なぜバラバラだったボクシング団体は統一できた?」“教師を殴ってアメリカ留学した男”から始まる日本ボクシングの歴史 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byKYODO

posted2021/09/27 17:05

「なぜバラバラだったボクシング団体は統一できた?」“教師を殴ってアメリカ留学した男”から始まる日本ボクシングの歴史<Number Web> photograph by KYODO

写真は1929年の明治神宮競技大会でのボクシング。神宮相撲場で行われた

 その結果、渡辺が独占していた拳闘興行に嘉納健治も参入することになる。程なくして、嘉納は主宰していた国際柔拳倶楽部を大日本拳闘会(大日拳)に改称。「東日本は日倶(渡辺)西日本は大日拳(嘉納)」という棲み分けが出来たのはここからで、日倶と大日拳の2団体時代に入った。

 相乗効果もあってか、次第に拳闘興行は活況を呈すようになる。開始当初は資金繰りに汲々とした日倶も、経営は次第に軌道に乗り始め、1922(大正11)年にはジュニアフェザー級の荻野貞行、フェザー級の横山金三郎をそれぞれ初代王者に認定。これが日本初のボクシング王者の誕生となる。

 さらに、新宿御苑、大森小学校、日比谷新音楽堂などでの興行は常に満員の観衆を集め、1923年2月17、18日と2日間にわたって、靖国神社相撲場で行われた「国際対抗戦」では2万人を動員。そこでライト級の渡辺勇次郎は、白系ロシアのヘビー級ボクサーをKOで倒している。

 このまま日倶と大日拳の2団体時代が続くかに見えたが、そうはならなかった。

 1923年9月1日、関東大震災が発生する。今では「東京の街の風景を変えた」と伝わる大震災だが、拳闘界の勢力図も一変させることになったのである。

「上海遠征」を巡るゴタゴタ

 震災で目黒の道場を失った渡辺勇次郎は、ハムの行商をして糊口をしのいだ。しかし、血気盛んな選手はそうはいかない。震災で興行どころか練習もままならない状況に、ジュニアフェザー級王者の荻野貞行は上海遠征を計画する。頭山満や内田良平とも近しい右翼活動家の荻野卓造を父に持つ関係で、上海の日本租界に根を張る大陸浪人とコネクションがあった。そこで、彼らの協力の確約を得たのである。

 そうでなくても「アジアの玄関口」と呼ばれた上海には、ボクシング先進国であるフィリピン人選手が頻繁に出場しており、国際戦を望む選手にとって魅力的なマーケットだった。さらに付け加えると、これまではさほど顕著ではなかった拳闘興行に、右翼勢力の影響が本格的に及ぶようになったことだ。ちなみに荻野貞行は、野口家とも生涯深い付き合いをしている。

 経済的に困窮していた日倶にとって、外貨を稼げる上に経験も積める上海遠征は渡りに船と思われたが、意外にも渡辺はこのプランに猛反対をする。

「まだそのレベルに達していない」という理由もさることながら、選手独自の興行活動を許せないのもあったのだろう。それでも荻野は、渡辺の忠告に耳を貸さず、郡山幸吉、吉本武雄らと遠征に出発する。

 2人の仲は決裂。渡辺は荻野に破門を言い渡した。その後、ごろつきを雇い荻野の自宅を襲撃させたが、右翼の壮士に返り討ちにされたという挿話もある。

 しかし、結果的に言うと、このときの荻野の行動が、日本のボクシングを新たなステージに導くことになったのである。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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