箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
2年連続“当日変更”で箱根駅伝を走れず…創価大主将・鈴木渓太が「全てやって、届かなかった」とき思ったこと
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph by創価大学駅伝部
posted2021/03/06 11:03
創価大学駅伝部で1年間キャプテンを務めた鈴木渓太(右から2番目)。箱根駅伝の出走はかなわなかったがすでにその眼は卒業後を見据えている
当日変更を知らない友人からの激励が
だからと言って箱根の出走が確約されたわけではない。もう一人の6区候補の濱野将基(2年)も力を付けていた。下りの走りだけならば鈴木に分があったが、平地での走力は濱野のほうが勝っており、箱根の6区20.8kmをトータルで考えた時には「濱野のほうが僕よりも強いんじゃないか」と、感じることもあった。そして、その予感は現実のものとなる。12月29日の区間エントリーを前に、全体ミーティングで1区から走者が発表されたが、6区を告げられたのは濱野のほうだった。
「その時は悔しいっていう気持ちしかなかったですね。やっぱり箱根を走りたいという気持ちが根底にあったので、走れないことがすごく悔しかったです。キャプテンをやりたくて大学に来たわけではないのに……なんて思いもしました」
実際の区間エントリーでは“当て馬”として6区に鈴木の名前があった。その時点ではまだ走る可能性も残されていたが、何事もなければ当日変更されることが決まっていた。そのことを知らない友人、知人からは激励のメールがたくさん届いたが、期待に応えられないことを申し訳なく思った。その半面、“これだけの人に応援されていたのか”と実感できたことはうれしくもあり、鈴木の心中は複雑だった。
両親に走れないことを伝えたのは、その翌日のことだった。1年前は、掴みかけたチャンスをぎりぎりで逃してしまったことに「もったいなかったね」という言葉が返ってきたが、今回は「今までよく頑張ってきた」と労ってくれた。
「ここを走れる可能性があったんだ…」
箱根駅伝の当日は濱野のサポートに当たったが、その頃には気持ちを切り替えて仲間の活躍を「ワクワクしながら」見守った。
しかし、気持ちに整理を付けたはずなのに、一度だけナーバスになったことがあった。それは、1月3日の朝、6区のスタート地点の芦ノ湖に着いた時のことだった。
「ここを走れる可能性があったんだと思ったら、込み上げてくるものがありました。もちろんそれを押し殺してサポートに当たっていましたが……。ただ、主務の豊福(妙香、4年)は僕がナーバスになっているのを察してくれていて、本来なら僕がやるべきことを何も言わずにやってくれていました。豊福には本当に助けられました」