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柔道とボクシングの歴史から消された“大物ヤクザ”の名前…柔道が総合格闘技に“なり損ねた”「サンテル事件」とは 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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posted2021/02/19 11:10

柔道とボクシングの歴史から消された“大物ヤクザ”の名前…柔道が総合格闘技に“なり損ねた”「サンテル事件」とは<Number Web> photograph by Getty Images

アメリカ人プロレスラー、アド・サンテル。1921年に柔道との異種格闘技戦を企画したが……

「混血児とか国籍不明の連中である」無許可の興行も

 にわかに巻き起こった“柔拳ブーム”を受けて、元締めの嘉納健治とは無関係に、芝居小屋や祭りの余興など各所において「柔拳」を謳う興行が頻繁に催されるようにもなる。多くの伝記や評論を発表し、北大路魯山人を見出したことでも知られる作家の白崎秀雄は、見世物化した柔拳興行の実情を、別の筆名を用いて詳しく伝えている。

《お粗末なリングに、柔道着を着た日本人と、グローブにパンツの外人が、レフェリー立ち会いの下に試合を行う。もっともこの外人というのは、なるほど紅毛へき眼にはちがいないが、日本語しか話せない手合いが多い。つまり神戸とか横浜で生れた混血児とか国籍不明の連中である。

 試合はたいがい、はじめ拳闘家が柔道家にさんざんパンチを食らわせてグロッキイにさせ、あわやダウンかという寸前、奮然とした柔道家が、決死の形相モノ凄く、拳闘家をつかまえてマットに叩きつけ叩きつけては逆をとり、最後には締めてノバしてしまう。観客はこおどりし、拍手かっさいという運びである》(『興行師』青江徹著/知性社)

 大衆娯楽路線をへて見世物興行に行き着いたこの時期の柔拳興行に、細かなルールを作成し、講道館柔道の総合格闘技化を目標に掲げた当初の姿はなかった。しかし、今に伝わる柔拳興行の姿とは、皮肉なことにこの時代以降の心象風景となろう。

「柔拳試合の興行価値の満点に目を着けた各地の興行師が、制限なく催したのに禍され、選手が芸人気取になって来たので、自分は憤然として手を引いた」(『明治事物起源7』石井研堂著/筑摩書房)

 日本の書籍編集者の草分けとも言える石井研堂の取材に応じた嘉納健治は、柔拳興行が凋落した当時の心境を、上のように打ち明けている。柔拳研究の第一人者である池本淳一(会津大学准教授)は、健治の心の動きをこう分析する。

「やくざの大親分だった健治ですから、無許可の見世物興行を一個一個潰すことは可能だったかもしれません。でも、あっさり見切りをつけたのは、叔父の嘉納治五郎が変節した時点で、理想を失ったからと見るべきでしょう。総合格闘技化ができなければ続ける理由もない。それだけ健治が、真剣に柔道改良運動に取り組んでいた証拠と言えるのではないですか」

嘉納治五郎「イザという場合、棒切れを利用して闘う」

 ここで、嘉納健治が叔父嘉納治五郎をどう見ていたか、改めて考察してみたい。

 筆者は拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』で、主人公野口修の父、野口進が「黎明期の拳闘家でありながら、剣の達人だった」と書いた。同じ自宅に住んだ愛弟子の三迫仁志は「先生は毎朝、雅叙園の庭で竹刀を素振りするのが日課だった」と述懐し、生前の野口修は「親父の剣術の腕はピス健の道場で習得した」と証言している。

 なぜ、嘉納健治は剣術の稽古も奨励したのだろうか。──そこでこういう事実がある。嘉納治五郎の手記である。

《講道館においては、武術の部門においては今日まで行ってきた棒術の練習を継続し、追々剣術の研究も始め、当身術の如きも従来に比し一層深き研究を遂げたいと考えている。よってそれらの研究に志あるものは、その志望を申し出ておくがよい》(『作興』昭和5年1月号)

 また、こうも書いている。

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