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柔道とボクシングの歴史から消された“大物ヤクザ”の名前…柔道が総合格闘技に“なり損ねた”「サンテル事件」とは
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byGetty Images
posted2021/02/19 11:10
アメリカ人プロレスラー、アド・サンテル。1921年に柔道との異種格闘技戦を企画したが……
帰国後、下目黒に開いた日本拳闘倶楽部(日倶)の入門者は一向に増えず、実家を担保に入れてまで開催した「日米拳闘大試合」は大失敗。あげくに、出場選手との金銭トラブルまで発生している。
「渡辺をさらって殺せ」という指令が、興行に関係したやくざの間に出回り、「借金のかたとして妻が債権者に連れ去られて、数日間帰って来なかった」ことも晩年になって明かしている。
「拳闘試合、これまた失敗」は本当か?
ことごとく不首尾に終わる渡辺勇次郎に、このとき手を貸したのが嘉納健治だった。
自らのお膝下である神戸と大阪での興行を提案した健治は、神戸新聞の後援を取り付け、自らの本拠地である新開地の聚楽館で拳闘試合だけの興行を催した。1922年5月20日、21日の二日間である。
「このとき、大日拳の嘉納氏の後援で大阪と神戸で純拳闘試合をやったが、これまた失敗」などと、後年の渡辺は記しているが、本当に失敗だったのかどうか。地元紙は初日の興行を次のように報じているからだ。
《肉弾相打つ拳闘試合 さしもに広い聚楽館も人で埋る盛況(中略)
観覧者は定刻前から続々と詰めかけ、競技開始前既に三階は元より二階も階下も一杯の人で、身動きもならぬほどにギッシリ埋まった。(中略)最後に当日第一の呼物たる本試合ローチ君対郡山君は両者何れも棋界の覇者の対抗とて、観衆の熱狂その極に達し》(大正11年5月21日付/神戸新聞)
“柔道着とトランクス”の漫才
もっとも、嘉納健治にとってもこの興行は単なる善意ということでもない。
アド・サンテルの挑戦を黙殺した講道館が方針転換する前後より、健治の興した柔拳興行は、大衆娯楽の“世界格闘ショー”にその性格を変えつつあった。
《外人勝か日本人勝か? 勝敗の決此一戦にあり》(大正13年5月17日付/読売新聞)
《英、仏、独、伊、墺、露、希、印、欧亜八ヶ国連合軍》(大正13年8月2日付/都新聞)
「ワシントン軍縮条約」や「日英同盟の解消」「排日移民法」など、国際情勢に伴う欧米諸国への反感も作用し、国家間の争いを煽ることで大衆のナショナリズムをくすぐった。結果、この路線が大当たりしたのだ。
昭和初期に人気を集めた上方の漫才師、千歳家歳男・今若というコンビの得意ネタは、歳男が柔道着、今若がトランクスにグローブのボクサー姿で行う「柔拳漫才」だった。投げ技をかけたり頭を叩いたりと、柔道と拳闘の他流試合をコミカルにアレンジして漫才にあてはめたこの形式は、柔拳興行が衰退し拳闘人気が高まると、そのまま「拳闘漫才」にシフトする。当時の柔拳人気の高さが知れる。