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突然の引退と涙の電話…「川崎の宝」鬼木達がフロンターレで指導者への転身を決意したワケ

posted2020/10/29 11:04

 
突然の引退と涙の電話…「川崎の宝」鬼木達がフロンターレで指導者への転身を決意したワケ<Number Web> photograph by Getty Images

2018年にはJリーグ史上5チーム目となる連覇を達成した川崎フロンターレの鬼木監督

text by

二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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Getty Images

J1新記録の11連勝を達成した川崎フロンターレ・鬼木達監督インタビューの2回目です。(全3回の2回目/#1#3へ)

 鬼木達はオニになった。

 のちに「ミスターフロンターレ」と呼ばれる伊藤宏樹が立命館大を卒業して入団したのがJ2に降格した2001年。1年目からセンターバックでレギュラーを張ることになるが、4つ年上のボランチの先輩からはとにかくよく怒られたという。

「何ごとにも厳しかったですよ。“お前ならもっとできるだろう”と。僕はあまり考えないタイプだったんで、ケツを叩くようにと言いますか、鬼さんの立場からすれば歯がゆかったんだと思います。

 でも僕だけじゃなく、みんな信頼していましたね。気持ちでは絶対に負けない人なんで、そこにみんな引っ張られていましたから。プレーでも運動量は多いし、気持ちを前面に出すし、テクニックはあったし。頼もしいっていう一言に尽きますね、本当に」

人に要求する分、己はもっとやる

 ピッチでは一切遠慮なし。

 人に要求する分、己はもっとやる。周囲にも目を配る。

 2002年にセレッソ大阪から移籍してきた岡山一成も「めっちゃ怒られました」と苦笑いで告白する。でも素直に受け入れられたという。

「オニさんの愛情っていうか、怒られてはいるんですけど“お前のために”っていうのは伝わってきましたから。プレーでも助けてくれるし、何ですかね、兄貴分みたいな感じですよ。

 グラウンドを離れたら優しかった。家にもよくお邪魔させてもらって夕食をごちそうになっていました。僕だけじゃなく、みんなが慕っていました」

 存在感100%以上のプレーから「川崎の宝」と呼ばれるようになるのも、2003年からチームキャプテンになるのも、必然の流れだったのかもしれない。

 勝負どころで勝てなかった1998年の、チームに不協和音がささやかれた2000年の苦い経験が、鬼木をたくましくさせていた。

【次ページ】 「一番はごまかさないということ」

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