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ビエルサは「失敗のスペシャリスト」と言うが…アルゼンチン、日韓W杯早期敗退と濃い“裏話”
text by
赤石晋一郎Shinichiro Akaishi
photograph byJMPA
posted2020/09/24 11:01
2002年W杯日韓大会で、グループリーグ敗退が決まって悲痛な表情を見せるバティストゥータ(中央)らアルゼンチン代表
中長期的に若手選手を育成するために
例えば2018年ロシアワールドカップでは日本代表はサポートメンバー(バックアップメンバー)として2名の選手を帯同している。通常は3名の場合が日本代表では多い。その目的はバックアップメンバーにワールドカップの空気を体感させる、といったところだろうか。
ビエルサが14人もサポートメンバーを呼んだのは練習の合理性を高めるためだけではなく、中長期的には若手選手の育成のためという考えも持っていたという。
「まず朝9時にサポートメンバーの14人を集めて、ビエルサは練習方法を徹底的に教えます。代表メンバーが来るのが10時。このときにサポートメンバーが代表メンバーに練習のデモンストレーションをして見せます。まず動きを見せることで効率よく練習が行えるようになるし、選手も早く内容を理解できるのです。練習は1日2回。つまりサポートメンバーは準備練習と本練習のサポートの2回、計4回トレーニングをすることになります。
そして練習の中ではサポートメンバーが、DFやパサーなど様々な役割を与えられ起用されます。大人数による機能的な練習風景は壮観でした。ビエルサは『ピッチにいる時間は尊いものだから、内容を深いものにしたい』とその理由を語っています」(荒川)
才能を見抜く目は凄まじいものがある
当時、14人のサポートメンバーの中には若き日のマスチェラーノ(元バルセロナ)がいた。マスチェラーノはその後、リーベル・プレートのトップチームデビューを果たす前に、ビエルサによってアルゼンチン代表に選出されるという、前例のない抜擢を受けている。サポートメンバーとしてのプレーぶりに、ビエルサは非凡なものを感じていたのだろう。
「マルセロの才能を見抜く目は凄まじいものがあります。
彼の教え子の1人に、日韓ワールドカップ当時はロン毛のDFとしてプレーしていたポチェッティーノがいます。彼はサンタフェ州マーフィーという片田舎の出身なのですが、当時ニューウェルス・オールドボーイズで育成コーチしていたマルセロは、13歳のポチェッティーノに会うためにロサリオから200キロの道のりを車で向かった。
しかし、ポチェッティーノの自宅に着いた時は午前1時で、彼は寝てしまっていたそうです。そこでビエルサはポチェッティーノの両親に『彼の足を見せて欲しい』と頼み込んだそうです。マルセロは両親に『この子は名選手になる足をしている』と伝えた。日韓ワールドカップのメンバーにも入ったように、ポチェッティーノはDFとして一流の選手となりました」(荒川)