酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
初代Mr.タイガース藤村富美男の、
17年間も埋もれた大記録って何?
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2020/05/28 07:00
物干しざおと表現されたバットで快打を放ち、甲子園のスターとなった藤村富美男。背番号10は阪神の永久欠番だ。
旧制中時代は「甲子園の申し子」。
昭和初期の地元紙「中国新聞」には社会人から中等学校、小学校まで野球の試合結果がびっしりと掲載されている。その中に「藤村」の名も「鶴岡」の名もたびたび出てくる。2人はそのころから意識しあうライバルだった。
鶴岡は五番町小学校から地域経済を担うエリートを育成する広島県立広島商業学校に進んだ。一方の藤村は高等小学校を卒業後は、父や兄が勤める呉工廠に就職するつもりだったが、私学の大正中(のちの呉港中)に勧誘され、進学する。
当時の広島県の中等学校野球界は広島商、広陵中の2強時代だったが、藤村が入学した呉港中はそこに割って入った。
当時の写真を見ると、ほっそりした選手が多い中、藤村はひときわ大柄でごつい体をしている。「小学校高学年の時から、藤村は体も大きかったし、髭も生えていた。同じ小学生には思えなかった」という同級生の証言もある。
当時の中等学校は5年制だ。藤村が2年になった1932年夏、甲子園に初出場してから、最上級生になる1935年までの4年間で呉港中は夏4回、春2回甲子園に出場。1934年夏には熊本工業を下して全国優勝を果たしている。藤村富美男はエースで4番だった。
藤村はその大車輪の活躍から「甲子園の申し子」と呼ばれた。
鶴岡一人も広島商では投手と内野手を掛け持ちして活躍。1931年春には全国優勝。1932年、33年も甲子園に出たが、すべて春の大会だ。夏の予選である広島県大会では、藤村のいる呉港中や広陵中に阻まれた。
タイガース最初の勝利投手に。
その後、鶴岡は法政大学に進み、東京六大学のスター選手になる。藤村も鶴岡に勧誘されて法政大学に進むことが決まりかけていた。しかし藤村は創設されたばかりの職業野球に進んだ。もしかすると、ここでも鶴岡に対する対抗心があったのではないか。
1935年11月11日、藤村冨美男は大阪タイガースと契約する。球団史上4番目の入団選手となり、月給は100円だった。
藤村は翌年4月29日に甲子園球場で行われた日本職業野球の開幕戦に先発し、名古屋金鯱軍を相手に9回1被安打11奪三振4与四球の快投で初勝利を飾っている。
85年の歴史を誇るタイガースの最初の勝利投手は藤村だったのだ。