酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
初代Mr.タイガース藤村富美男の、
17年間も埋もれた大記録って何?
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2020/05/28 07:00
物干しざおと表現されたバットで快打を放ち、甲子園のスターとなった藤村富美男。背番号10は阪神の永久欠番だ。
20代の働き盛りは兵役だった。
この時代の職業野球では、投手と打者は明確に分業できていなかった。投手が中軸を打つことも珍しくなかった。タイガースでは、藤村の1歳年上で立教大を中退して入団した景浦將も「二刀流」で活躍した。
戦前の藤村は打者としては打率3割を4回、本塁打王1回、投手としては防御率3位を1回記録。1937年4月8日の大東京戦では5回コールドながらノーヒットノーランを記録している。
景浦はさらにスケールが大きく、打者としては首位打者1回、打点王2回。投手としては防御率1位を1回獲得している。
世の中は、戦争の足音が迫っていた。藤村は1939年に応召、1941年に太平洋戦争がはじまると南方戦線に派遣される。1943年に除隊となったが、23歳から27歳まで野球選手としての働き盛りに兵役に就いたのだ。
戦前からのプロ野球選手で、2000本安打を記録しているのは巨人の川上哲治だけ。藤村はこれに次ぐ1694安打を打ったが、兵役による4年のブランクさえなければ彼も大台を超えていただろう。
しかし藤村はまだ幸運だった。同僚の景浦將は1940年、1944年と2度応召し、1945年5月にフィリピンで戦死している。命があっただけ良かったと言うべきだろう。
2度もサイクル安打を達成していた。
終戦翌年の1946年に、プロ野球は再開した。藤村は大阪タイガースにプレイングマネージャーとして復帰する。奇しくもライバルの鶴岡一人も南海のプレイングマネージャーになっている。
その時点で30歳の藤村はここから全盛期を迎えるのだが、記録を調べると、ものすごいことを人知れずやってのけているのだ。
1948年10月2日の金星戦では日本プロ野球史上初のサイクル安打を達成。さらに1950年5月25日の広島戦でも史上3例目のサイクル安打を記録している。
実は当時、この記録について誰も知らなかったのだ。
日本の野球界が、サイクル安打が大記録だと気が付いたのは1965年になってからだ。阪急のダリル・スペンサーがサイクル安打を記録した時、記者に「どうしてこの記録について聞かないんだ」と尋ねたのがきっかけだ。記録部が、古いスコアシートをひっくり返して、藤村の記録を発見したのだ。
すでに藤村は引退していたが、17年ぶりに藤村の凄さが再認識されたのだ。