酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
初代Mr.タイガース藤村富美男の、
17年間も埋もれた大記録って何?
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2020/05/28 07:00
物干しざおと表現されたバットで快打を放ち、甲子園のスターとなった藤村富美男。背番号10は阪神の永久欠番だ。
“飛ぶボール”と「物干しざお」。
プロ野球は1948年から'50年にかけて、ラビットボールと言う反発係数の高いボールを導入。いきなり極端な打高投低時代に突入した。
藤村はこのラビットボールのメリットを最大限に活用して、数字を荒稼ぎした。
1947~49年に打点王、1949年には当時のプロ野球記録の46本塁打142打点の二冠王でMVPを獲得。1950年は首位打者。この年記録した191安打は、イチローが1994年に210安打を打つまでのNPB記録だった。
戦後、藤村は天性のショーマンシップを発揮した。三塁守備ではダンプカーのように打球に突進し、派手な動きで送球した。空振りをして尻もちをついてみせたり、ホームランを打てば万歳をしたり、観客席に帽子を振りながらホームインしたりした。
有名な「物干しざお」も戦後、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘が人気になったことから対抗意識で使い始めたのだ。その長さは38インチ(96cm)近くあった。野球殿堂博物館で実物を見たが、川上の赤バット、大下の青バットよりも明らかに長い。しかし細身でノックバットのようだった。
藤村はこのバットを目いっぱい長く持って振り回し、よく飛ぶラビットボールを打ちまくっていたのだ。
長嶋茂雄が三塁手になったきっかけ。
中学時代の長嶋茂雄が、藤村のプレーを見てファンになったのは有名だ。この後、遊撃手だった長嶋は、三塁手に転向するのだ。
藤村から長嶋茂雄へ、派手なスターの大活躍でプロ野球は日本のナショナルパスタイムになっていく。
その一方で指導者としての藤村は、今ひとつだった。1946年にプレイングマネージャーを務めたものの、翌年からは選手に戻る。
阪神は1949年、セ・パ両リーグ分立時に兼任監督だった若林忠志、主軸の別当薫、正捕手の土井垣武、外野手の呉昌征など主力選手が毎日に引き抜かれた。一方で藤村は阪神に残留し、1955~57年には再びプレイングマネージャーになる。ベンチから審判に声をかけ「代打、わしや」と言ったエピソードはこの時期である。
しかし1956年には主力選手の金田正泰や若手の吉田義男、小山正明と対立し「藤村監督排斥運動」を起こされたのちに退陣。一度は現役も引退した。