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川島永嗣が“オッサン”と敬愛する
自転車界の開拓者、別府史之の15年目。
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph bySonoko Tanaka
posted2019/10/27 08:00
ロードレースで長年存在感を放つ別府史之。インタビューでその思いのたけを語ってくれた。
別府の人生を変えた一本の電話。
地元の神奈川県茅ヶ崎市に戻り、2週間が過ぎた頃だ。近所のデパートで買い物をしていると、携帯電話が鳴った。受信ボタンを押すと、知らない外国人の声が聞こえてきた。
相手は現在のワールドチームに当たる強豪USポスタルサービスを前身とするディスカバリーチャンネルの監督を名乗り、「フランス語で話すか、英語で話すか」といきなり問いかけてきたのだ。
「フランスの友人が、へこんでいる僕を元気付けるために冗談でかけてきたのかと思いました。話を聞けばどうやら本物で、『アジア人でこんな成績を残した選手は初めて見た。うちのチームに君がほしい』と。まさに地獄から天国でした。一気に世界が変わりました」
人生を変える一本の電話だった。2005年、日本人初のUCIプロツアー選手となり、ここから日本ロードレース界の第一人者として華麗なキャリアを積み重ねていく。
ツール・ド・フランスだけではなく、グランツール(世界三大ロードレース)と呼ばれるジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャも完走。ワンデーレースにおいても、歴史と権威のあるモニュメント(世界五大クラシックレース)をすべて最後まで走り抜いた。
とりわけ完走が難しいと言われる『パリ~ルーベ』、『ロンド・ファン・フラーンデレン』ではガタガタの石畳や瓦礫の中を駆け抜け、泥まみれでフィニッシュしたこともあった。「地獄絵図のようですよ」と苦笑しながらも、「魂と魂のぶつかり合い。プライドがないと走れない」としみじみ振り返る。グランツールとモニュメントの全レースをコンプリートしたのは、日本人ではいまだ別府のみ、全世界の現役選手でも8人しかいない。
「僕はすべて本気で走ってきた」
それでも、本人に達成感はない。
「年齢を重ねるごとに走ってきた証が残されているだけです。結果を残しても、ほっとするくらい。自転車ではたくさん泣いてきたけど、うれし泣きはない。全部、安どの涙ですよ。僕はすべて本気で走ってきたから。常に戦ってきましたよ。だから、いまの僕があるんです」
言葉にはヨーロッパで生き抜いてきたプロの矜持がにじむ。日本の自転車ロードレース界を背負っているという気負いもあるのだろう。マネジメント業務を請け負い、レース中継のコメンタリーでもおなじみの兄・始は、弟の思いを代弁する。
「フミ(史之)は日本の代表として走ってきたと思います」
本人も日本のサイクリストたちに夢を与える存在でありたいという。本気の走りは、2020年も続く。その先に節目となる東京オリンピックが待っている。