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11年前、城福浩が見た「東京の未来」。
三田啓貴の原点とJ初制覇への渇望。
text by
馬場康平Kohei Baba
photograph byJ.LEAGUE
posted2019/10/23 20:00
今夏にJ1初制覇を目論む古巣へ戻ってきた“タマ”こと三田啓貴。東京愛に溢れたレフティーの存在感は日に日に高まっている。
三田を強くした恩師との別れ。
中学3年生になり、FC東京U-15深川でサッカーのイロハを教わった恩師との別れが待っていた。
「お前たちが青赤にあこがれるのと同じように、オレにとっても子どものころからあこがれていたチームだった。だからオファーをもらってうれしかった」
丸山は、その言葉を置き土産に東京ヴェルディユースのコーチ就任を決断した。
三田は「つらい別れだった」というが、それでも中学年代の東京ダービーでは一度も負けなかった。「他の試合とは違う。絶対に負けるな」という丸山の教えを守ったからだ。相手ベンチに座る恩師の前で活躍する姿を見せ続けた。
“タマ”という呼び名は「最初はメチャクチャ嫌だった」。だけど、大好きな人が名付けてくれたからこそ、気に入ったのだろう。
「一番光っていたのはタマだった」
才能はゆっくりとだが、輝きを放つようになる。
本吉は「際立つほど抜群という感じではまだなかった。線が細かったのでどうしてもボールを持っていると倒されることも多かった。ただ、推進力や得点感覚には高いものがあった」と、中3になった三田を先発に抜てきする。高い攻撃センスを買われてサイドのポジションを勝ち取り、出場機会を増やしていく。好不調の波は激しかったが、次第にチームの主軸を担うまでになった。
主力となって臨んだ2005年の高円宮杯全日本ユース(U-15)決勝では山田直輝、原口元気らを擁する浦和レッズと国立競技場で対戦し、0-2で敗れた。そのスタンドにはFC東京U-18を指揮していた倉又寿雄監督(当時)の姿があった。「浦和は確かにすごいチームだったけど、こんなに差があるのか」と驚いたが、1人ひとり注意深く観察する中で目に留まった選手がいた。それが、左サイドをドリブルで駆け上がる三田だった。
「中でも一番光っていたのはタマだった。細いし、まだまだ粗削り。だけど、左足の持ち方は、中学生でこういう感覚の選手がいるのかって思うほどだった」
倉又は準決勝のサンフレッチェ広島戦と、浦和戦の2試合を観戦し、「(U-18に)上げなきゃいけない選手」だと決めた。自身も自分のプレーに手応えがあった。だから「活躍できたからユースに上がれる確信はあった」と言う。
後日、本吉から呼び出されて「おめでとう」と、U-18への昇格を告げられた。