「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER

谷間の世代・石川直宏が今振り返る、
黄金世代との比較、アテネ、ケガ。 

text by

浅田真樹

浅田真樹Masaki Asada

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photograph byYuki Suenaga

posted2019/06/27 11:30

谷間の世代・石川直宏が今振り返る、黄金世代との比較、アテネ、ケガ。<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

「谷間の世代」屈指のドリブラーだった石川直宏。現在はFC東京の「クラブコミュニケーター」の役職を務めている。

ワールドユースで決まった評価。

 迎えた2001年6月のワールドユース。当時のU-20代表監督、西村昭宏がグループリーグ初戦を終えた後に、「顔面蒼白の選手もいた」と話していたのが印象深い。

 18年前を思い出す石川の表情にも、少し険しさが加わる。

「多くの遠征や合宿を何のためにやってきたのかって言ったら、世界で戦うため。だから、この大会への思い入れが強かったんですよね。思い入れが強い分、いろんな力みが生じたり、緊張があったり。まして世界大会は誰もが初めてだったので、どういう雰囲気かも分かりませんでしたから」

 結果は1勝2敗でグループリーグ敗退。開催国枠で出場した1979年大会を除けば、日本が本大会に出場したU-20W杯(ワールドユース)で決勝トーナメントに進めなかったのは、直近の2019年大会までこれが唯一である。

 と同時に、この結果が、谷間の世代という評価を決定づけたと言ってもいい。

「90分のなかには耐える時間帯や、(攻撃の)スイッチを入れる時間帯がある。今の20歳くらいの子たちは、それを平気でやりますが、僕たちはそういう柔軟性がなかった。どんな相手にも、ひたすら自分たちの力がどこまで通じるか。だから、ハマるときはガツンとハマる。でも、相手にちょっといなされたら、対応できなかった」

初戦で動揺を隠せなかった未熟さ。

 石川の記憶に残るのは、初戦のオーストラリア戦でのことだ。日本は、まさかのオウンゴールで先制点を献上すると、完全にリズムを失った。

「チーム全体に動揺があって、僕もそのとき、助けを求めるように何回もベンチのほうを見た気がします。未熟さというか、経験のなさというか……。この試合はもちろんですが、グループリーグ3試合が、あっという間に終わってしまいました」

 だが、不甲斐ない結果の一方で、右サイドで多くのチャンスを作り出した石川自身には、「手ごたえを感じた」大会でもあった。

「ワールドユースは終わってしまったけれど、2004年にはアテネ五輪がある。そこでリベンジしたいという気持ちはあったし、すぐに気持ちを切り替えました」

 石川は2002年途中にFC東京へと移籍(当時は期限付き移籍。のちに完全移籍)すると、サイドアタッカーとしての才能が開花。韓国・釜山で開かれた2002年アジア大会で銀メダルを獲得するなど、アテネを目指す五輪代表の主力としても活躍した。

 世界でつかんだ手ごたえは、確かなものだった。

A代表と五輪代表を掛け持つ苦悩。

 ほどなくして、石川のもとに朗報が届く。2003年5月、ジーコ率いるA代表に初めて選出されたのである。

 もちろん、石川は喜んだ。

「そこを目指す意識でやっていくことで、五輪代表でも自分が中心になってやれるだろうし、やりたかった。ワールドユースで悔しい思いをしていましたからね」

 ところが、である。A代表と五輪代表の掛け持ちが、石川に思わぬ苦悩をもたらすことになる。

 2004年3月のアジア最終予選、さらには8月のアテネ五輪本番を控え、同年1月、五輪代表はオーストラリアでキャンプを行った。だが、A代表の活動と重なっていた石川は、そこに参加していない。結果、石川はその後の五輪代表で、強烈な疎外感を覚えることになったのである。

「オーストラリアから帰ってきたチームに合流して、その完成度にビックリしました。自分がいないなかでチームが出来上がっていて、そこにポンと入っても対応できる自分ではなかった。最終予選が始まっても、案の定、(重要な)試合には出られませんでした」

【次ページ】 「どっちつかず」で悩んだ時期。

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