「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
谷間の世代・石川直宏が今振り返る、
黄金世代との比較、アテネ、ケガ。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/06/27 11:30
「谷間の世代」屈指のドリブラーだった石川直宏。現在はFC東京の「クラブコミュニケーター」の役職を務めている。
「どっちつかず」で悩んだ時期。
A代表には完全に定着できず、五輪代表でもサブ。ふたつの代表チームが異質なスタイルを志向していたことは、石川にとって不運だったとはいえ、本人曰く、「どっちつかず」の悪循環に陥っていたのは確かである。
「初めてA代表に選ばれたころは、FC東京でも試合に出続けていたし、パフォーマンス自体はよかった。でも、だんだんと自分のなかでバランスが取れなくなっていったというか、切り替えができなくなっていった。
A代表にも選ばれていた僕は、五輪代表のなかでも周りから注目されて、忙しく取材をしてもらっていたんですが……それが自分のなかではしっくりこない。悩んだ時期でした」
伸び盛りの22歳でA代表初選出。ワールドカップは3年後。本来なら、出場が現実味を帯びる絶好のタイミングだったはずである。しかし、石川の場合、「アテネ前はもちろん、アテネが終わってからも、次はドイツ(ワールドカップに出場する)っていうのは、まったくイメージできませんでした」。
そこには、アテネでのあまりに苦い経験も影響している。
五輪での出番は敗退決定後の3戦目。
苦しい時期をどうにか乗り越え、アテネ五輪の登録メンバーに名を連ねた石川。そこで期待された役割は、攻撃の切り札である。
ところが、グループリーグ初戦のパラグアイ戦では、終始リードされる展開で進みながら、最後まで出番はなし。続くイタリア戦も、1点を争う拮抗した展開だったにもかかわらず、声はかからなかった。
自分は何のために選ばれたのか。
もどかしさを抱えながら、それでも勝利を信じて見守った試合で、チームは2連敗。ようやく石川に出場機会が巡ってきたのは、グループリーグ敗退決定後の第3戦だった。
「僕たちって谷間の世代と言われながら、応援してくれる人たちも多かったんですよね。だから、最後のガーナ戦で先発だと聞いたときは、もう上に上がることはできないけれど、とにかく自分がやってきたことを全部出そうと思いました。応援してくれる人たちへの感謝と、何より僕は、(当時、五輪代表監督の山本)昌邦さんを見返そうと思ったんです」
途中交代を告げられて起きた事件。
そんな決意の一戦で“事件”は起きた。
日本が1点リードで迎えた62分だった。その直前、石川は中央に切れ込んでパスを出し、高松大樹の惜しいシュートにつなげていた。ここからもっとチャンスに絡んでやる。そう考えていた矢先である。
ピッチサイドに目をやると、第4審判が掲げたボードに、石川の交代を告げる「14」が示されていた。
「頭のなかは真っ白ですよね。もう我を忘れて……」
松井大輔と握手で交代した石川は、ピッチへ一礼。そして両手で顔を覆い、大きく天を仰いだ。と、その瞬間、彼のなかで辛うじてせき止められていた感情があふれた。
石川は足元にあった水の入ったボトルを蹴り上げ、ベンチ前に立つ山本監督との握手を拒否。ベンチ前を素通りして、そのままロッカールームへ戻ると、泣きながら自分のロッカーを何度も何度も殴りつけた。
「伸二さんが『またA代表で』と」
「今思うと、ホント、ありえないですよね」
今でこそ、石川はそう言い、顔を真っ赤にして照れ笑いする。若気の至り、なのかもしれない。だが、積年の思いをぶつけるはずだった舞台の結末がこれでは、その胸中たるや察して余りある。
「親父も親戚も見に来ていたし、サポーターの人たちもスタンドにいたのでベンチへ戻りましたが、試合を見ていても、もう上の空。たぶん、試合が終わる前から泣いていたと思います。そしたら試合後に伸二さんが、『A代表でまた一緒にプレーしよう』って言ってくれて、また泣いて。少し冷静になってスタンドへ挨拶に行ったのに、親父の姿を見たら、また泣いちゃって(苦笑)」
3年前のリベンジどころか、失意のどん底に叩き落されて終えたアテネ五輪。だが、石川の気持ちには、悔しさのなかに、少しホッとする部分もあったという。
「FC東京があって、A代表があって、五輪代表があってというなかでやってきて、そのバランスが取れなくて苦しかった。だから、やっと……、やっとって言ったら変ですけど、クラブに専念できるって思いました。そこで結果を残せば、きっとまたA代表にも選ばれるっていうシンプルな考えになれたんです」