JリーグPRESSBACK NUMBER

知られざる平成元年のフットボール。
山田隆裕、長谷川健太が新星の頃。 

text by

川端康生

川端康生Yasuo Kawabata

PROFILE

photograph byAFLO

posted2019/05/14 17:30

知られざる平成元年のフットボール。山田隆裕、長谷川健太が新星の頃。<Number Web> photograph by AFLO

1989年、日本代表でプレーしていた頃の長谷川健太。赤だった日本代表ユニフォームも時代を感じる。

天皇崩御の2日後に選手権準決勝。

 そして「いつ終わるかわからない」ということは、前もって「予定」することができないということでもある。

 昭和が終わった(天皇が崩御した)のは1月7日の早朝だった……と書けば、察しのいい人はお気づきかもしれない。この時期は日本サッカーのカレンダーでは、ちょうど高校サッカーの真っ最中。この日も準決勝が予定されていたのだ。

 しかし崩御を受けて試合は順延。それでも同じく決勝戦が予定されていた高校ラグビーが中止(両校優勝)となったことを思えば、大会を続行できたサッカーは準備が周到だったのかもしれない。

 2日延期して行われた準決勝では、野口幸司(ベルマーレ)、小川誠一(グランパス)、中川秀樹(ペナルティ!)がいた市立船橋(インターハイ王者)が決勝に進出し、その市船を決勝戦で1-0で破った清水商が、平成となって最初の優勝チームとなった。

 このときの清水商には、キャプテンの三浦文丈を筆頭に、藤田俊哉、太田貴光、古賀正人と後のJリーガーが勢揃い。さらに決勝戦でチャンピオンゴールを決めたのは1年生の山田隆裕で、その同級生には(このときはまだ控えだった)名波浩、大岩剛、薩川了洋……と列記していけば、ちょっとした強豪チームが作れそうな豪華さである。まさしく「サッカー王国」だった。

 もちろん、このときJリーグはまだ誕生していない。だから彼らの多くは大学に進学した。そして卒業を迎えたとき……ドンピシャリでJリーグが始まるのである。プロリーグ開幕まであと4年。昭和から平成への改元は、そんなタイミングだった。

日本リーグは“禁じ手”で4万人超。

 では、日本リーグはどうだったか。

 実は「令和最初」と同様、「平成最初」のシーズン(当時は秋春制だったから昭和63、64年から平成元年にかけて行われたシーズン)にも観客動員新記録が生まれている。

 平成元年2月26日、国立競技場に4万1000人の観客を集めたのだ。

 ただし、このときは若干の“禁じ手”が使われている。まずダブルヘッダーで開催した。それも当時の人気カード、読売vs.三菱、日産vs.ヤマハの2試合をマッチメイク。そればかりか入場料まで無料にした。

 その末に実現した「4万人」だった。

 それでも当時の日本サッカーにとって「4万人」は(いかに無料だったとしても)大きな手応えとなったはずだ。

【次ページ】 明石家さんまがヌードになった!

BACK 1 2 3 4 NEXT
長谷川健太
藤田俊哉
名波浩
山田隆裕
清水商業高校
横浜F・マリノス

Jリーグの前後の記事

ページトップ