“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
町田FW中島裕希「昨年を超える」。
恩返しはクラブの未来への貢献。
posted2019/04/17 17:00
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Takahito Ando
「まだやれる」
「もっとやれる」
心の中ではそう思っていても、現実がそれを阻むことがある。それはサッカー選手に限らず、誰しもあることだ。だが、それを打ち破り、その言葉を現実にする人間はそう多くはいない。
中島裕希はその限られた人間の1人だ。
筆者は彼が富山第一高校の1年生の頃から取材をしている。当時からその身体能力と、それを自らの意思でコントロールする能力に長けた選手だった。ピッチ上を飛び跳ねるように駆け回り、前線からの守備はもちろん、攻撃に切り替わる瞬間にDFの視界から消え、裏のスペースに飛び出して決定的なチャンスを作る。野性味と知性の両方を感じさせるプレーはかなり魅力的だった。
31歳で告げられた契約満了。
2003年に高校の偉大なる先輩である柳沢敦の背中を追うように鹿島アントラーズに入団すると、ルーキーイヤーから出番を掴んだ。'06年に活躍の場をベガルタ仙台に移してからは、当時J2だったチームにおいて、ストライカーとして躍動。プロ5年目の'07年には初の2桁得点(10ゴール)をマークし、'09年のJ1昇格にも貢献した。
'12年にモンテディオ山形に移籍すると、ここでもゴールを量産。'13年にリーグ40試合出場、12ゴールをあげ、翌年には自身2度目となるJ1昇格を果たした。
だが、山形が1年でのJ2降格を喫した'15年シーズン終了後、彼は契約満了を告げられる。
「このシーズン、リーグ戦で31試合に出場していたのに、サッカー人生で初めて『ゼロ提示』を受けて、本当にショックだった。まだまだやれるのに、悔しかった」
当時31歳の彼にいきなり突きつけられた現実。その後、彼にはもっと厳しい戦いが待っていた。
「最初はトライアウトを受けないつもりだった。『多分オファーがくるだろう』と安易に考えていた。でも、オファーがなかった。それで代理人と話をしたら、『まだまだやれるというのを、トライアウトで示したほうがいい』と言われたんです。僕の中でトライアウトに出るのは恥ずかしいこと、屈辱のようなイメージがあった。でも、代理人の言う通りだと思い、出場を決めました」