ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
獣神サンダー・ライガーが引退決断。
ジュニア発展に身を捧げた男の矜持。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2019/03/13 08:00
ジュニアヘビー級の底上げに多大な貢献をしたライガー。彼の功績はこれからも若き戦士たちの指針となるだろう。
「生涯ジュニアヘビー級」
新日本プロレスの若手人気選手だった“Y”は、1989年4月24日、プロレス界初の東京ドーム大会である新日本プロレス『格闘衛星☆闘強導夢』でマスクマンに変身し、獣神ライガーとしてデビュー。以後30年間、平成という時代のすべてでジュニアの象徴として君臨した。
ジュニアヘビー級というジャンルにおいて、その功績はあまりにも大きいが、それはひとえにライガー自身が、プロレスラーになったそのときから「生涯ジュニアヘビー級」を貫く決意を持っていたことに起因する。
日本のプロレス界は'80年代まで、身長180cm以上が団体に入門できる最低基準。公称身長170cmのライガーは、本来、日本ではプロレスラーになることはできないはずだった。
高校卒業後、単身メキシコへ。
それでもレスラーになる夢が諦められなかったライガーは、国際プロレスの小柄な覆面レスラーであるマッハ隼人が、ルチャ・リブレの本場メキシコでレスラーになったことをプロレス雑誌で知り、高校時代にメキシコ行きを決意。NHK「スペイン語講座」でスペイン語を勉強し、高校卒業後に単身メキシコに渡る。
そして現地で老舗団体CMLLの練習生としてトレーニングを続ける中、たまたま新日本プロレスがメキシコ遠征を行った際、山本小鉄に拾われるかたちで入門が許され帰国。厳しい新弟子生活を耐え抜き、'84年にようやく(素顔で)デビューをはたすことができた。
そういった経緯があっただけに、それまでの歴代のジュニアチャンピオンたちと違い、ライガーに「将来のヘビー級転向」という選択肢は最初からなかった。
その代わり、ジュニアヘビー級の地位向上と、ジュニアヘビー級の闘いの面白さをより多くの人たちにアピールすることが、ライガーのライフワークとなっていったのだ。