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北京五輪の落選ショックから10年。
青山敏弘が森保Jで巻いた赤い腕章。
text by
原山裕平Yuhei Harayama
photograph byGetty Images
posted2018/09/14 10:30
ロングパスで最終ライン裏を狙い、守備でも冷静な対応。本人としては納得できない部分もあっただろうが、青山敏弘らしさは随所に見えた。
「岡山で新幹線を降りたくらい」
予選では主軸として活躍しながら、北京五輪代表から落選。この悲劇が結果的に、青山のキャリアを青いユニホームから遠ざけた。
「あんなに落ち込んだのは、今までなかったかもしれない。大阪から広島に帰る新幹線のなかで落ちたことを知って、あまりのショックに実家に帰ろうと思って、岡山で降りたくらいだから。結局実家には行かなかったけど、ホームで1時間くらいボーっとしてた。
チームに帰っても周りの目が気になって、どうしようもなかった。同情されてるのかなとか、気を遣ってしゃべってこないのかなとか。そんなわけはないのに……」
後に当時の想いを青山はこう振り返っている。アンダーカテゴリーの世界大会の経験がなかった青山にとっては、初めて世界を知り得るチャンスだった。すべてをかけていた分、落選のダメージはあまりにも大きかった。
「国内では良い選手」という評価。
一方で、同年生まれの本田圭佑、岡崎慎司、長友佑都、あるいは年下の香川真司や内田篤人がこの大会をきっかけに、日本代表の主軸へと上り詰めていく。
海外移籍を実現する選手も次々に現れていくなか、青山はサンフレッチェ広島という中堅クラブで不動のレギュラーとなってはいたものの、スポットライトを浴びる同世代との差は広がるばかりだった。
「刺激になるよね。俺らの年代がそこまで来てるんだと、リアルに感じられるようになった。もうちょっとパフォーマンスを上げて、注目を浴びるような位置までレベルアップしていきたい。そういった新たな楽しみが生まれてきたのは間違いない」
悔しさをモチベーションに変えて成長の糧にした一方で、なかなか彼らに追いつけないという焦りもあったはずだ。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督に才能を見出され、森保一監督の下で逞しく鍛えられたボランチは、2012年、2013年とリーグ連覇に貢献。それでも、「国内では良い選手」という程度の評価を受けるに過ぎなかった。