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急造の西野ジャパンも学ぶべき!?
豪代表ファンマルバイクの超合理主義。
text by
ティエリー・マルシャンThierry Marchand
photograph byAlain Mounic
posted2018/04/22 09:00
サウジ代表のW杯出場決定後、本大会へ向けての代表監督を続ける諸条件に納得がいかず、自ら契約延長を拒否したファンマルバイク。
南アW杯では決勝まで進んだファンマルバイク。
直接的なコンタクトはさておき、ヒディンクがファンマルバイクに与えた影響は大きい。
ロシア代表を率いてEURO2008に出場したヒディンクは、ファンバステン率いるオランダを準々決勝で3対1と粉砕した。
その時のオランダは、グループリーグでイタリア(3対0)とフランス(4対1)という'06年ワールドカップのファイナリスト2カ国を破っている。
ファンバステンの後を継いでオランダ代表監督に就任したファンマルバイクは、どんな手段に頼ってもオランダを再び世界のトップに引き上げることに心血を注いだ。
その結果、南アフリカでオランダは、1978年以来3度目のワールドカップ決勝進出を果たしたのだった。
オーストラリアとオランダの深くて長い関係。
オーストラリアのサッカーの歴史において、オランダとの関係は深く長い。
何よりもオーストラリアの大地に足を踏み入れた最初のヨーロッパ人はオランダ人のウィレム・ヤンツであった。ヘルトーグからタスマン(タスマニア島の発見者)まで、それから多くのオランダ人がこの新しい大陸を訪れ、最初に居住したのも難破したオランダ人船員たちだった。17世紀の世界地図には、オーストラリアはニューオランダの名前で掲載されている。
そこから時間は大きく流れ、20世紀半ばに多くのオランダ人がオーストラリアに移住し、「ブリスベン・ロアー(当初の名前はホランディア・イナラ)」をはじめとする10を超えるサッカークラブを設立した。それらのクラブはほぼどれもがオレンジを基調とし、バタビア起源であることを示すライオンをクラブのシンボルに採用していた。