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大仁田厚、7年ぶり7回目の引退!
復帰までがお約束のプロレス人生。
posted2017/10/30 07:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
いよいよ、10月31日後楽園ホールで大仁田厚の引退試合が行われる。
とは言え、これまで引退と復帰を繰り返してきた大仁田にとって、今回が7年ぶり7回目の引退。正直、「これが最後」と本気で思っているファンは少ないだろう。
大仁田自身は「今度こそ本当に引退」を強調しているが、3度目の正直の倍以上となる「7度目の正直」、6回も引退を撤回してるのに「プロレスラーに二言はない」と断言するなど、その発言は半ばネタ化している。
そもそも引退が「○年ぶり○回目」と、甲子園や紅白出場ばりの呼ばれ方をするのも大仁田ぐらいだろう。
これまで6度の引退をここであらためて振り返ってみると、まず1度目の引退は全日本プロレス所属時代。1983年4月のヘクター・ゲレロ戦で左膝蓋骨粉砕骨折の重傷を負い、復帰後も精彩を欠いた。'84年12月に引退を懸けた試合でマイティ井上に敗れたことで、翌'85年1月3日後楽園ホールで引退式を行なっている。
女子プロレスで無理やり復帰、デスマッチでブレーク。
この1度目の引退後、大仁田はタレントに転身するがうまくいかず、工事現場での肉体労働をはじめ、様々な職を転々としたのち復帰を決意。しかし、当時の(男子)プロレスは新日本、全日本、UWFの3団体時代。ケガで引退した中堅レスラーをあげるリングなどなく、復帰は事実上不可能なはずだった。
しかし大仁田はジャパン女子プロレスのコーチに就任すると、同団体でレフェリーを務めていたグラン浜田と因縁が生まれ、女子プロレスのリングで無理矢理復帰。
その後、'89年7月に「格闘技の祭典」で、空手家の青柳政司と異種格闘技戦を行い、この遺恨をきっかけに、自らの団体FMWを設立。破天荒なデスマッチを連発して、まさかの大ブレイクを果たす。
そして人気絶頂の'94年に2度目の引退を発表した。1年間かけて引退ツアーを行い、トータルで213万人ものファンを動員。最後は'95年5月5日、川崎球場に5万8250人という同球場の観客動員記録を作る大観衆を集め、愛弟子ハヤブサ相手に引退試合を行った。