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いつも心に“大洋”を!
異能の脳外科医・近藤惣一郎の半生。 

text by

村瀬秀信

村瀬秀信Hidenobu Murase

PROFILE

photograph bySoichiro Kondo

posted2014/02/24 10:40

いつも心に“大洋”を!異能の脳外科医・近藤惣一郎の半生。<Number Web> photograph by Soichiro Kondo

2月5日、キャンプ地・宜野湾で三浦大輔番長とツーショットをきめる近藤氏。

卒業文集の夢は「大洋漁業に入って重役に……」。

 小学校の卒業文集では多くの同級生が将来の夢は「プロ野球選手」と書く中、近藤少年は、プロ野球選手でも、医者でもなく、“大洋漁業に入って、重役になって、毎試合バックネット裏で大洋の試合を観る”と書いた。ある意味、目標は明確だった。

 その後、近藤少年は大洋を心の支えに、勉学と部活を両立させ、名門・県立岐阜高校を経て、京都大学医学部へ合格。大学生となると、舞台は'83年関根監督時代の甲子園球場へと移る。

「当時の甲子園の大洋応援団といえば、太鼓を叩くスナック経営の御夫婦を囲んだ数名で、これをどうにかしようと思い、スタンドにいた仲間が数名集まり新たな応援団を組織したんです。『横浜大洋ホエールズを愛する会 関西支部マリン会』。ある倉庫会社の社長さんの音頭で、僕はその初代会長に就任しました。横浜から愛する会・石川団長にも御来阪いただいたこともありました。

 トランペットもないため、京大のブラスバンド部のメンバーを、家庭教師のバイト代5000円を払って、甲子園に引っ張ってきて田代や山下のテーマを吹いてもらう。テレビでしか聞いたことがないあの応援が間近で聞こえるんですから、それは感動しましたよ!」

 しかし、この応援団は、以前からある別の応援団との衝突で闘争に飲み込まれる形となり、結成一年で、失意を抱いた近藤氏は愛する会会長を潔く辞した。そして、それ以来、球場から足が遠のいてしまう。

「同じ大洋を愛するいい年の大人が、いがみあってね……残念でしたよ。それから僕は球場には行かなくなりましたけど、それでも大洋はいつも心の真ん中にありました。医学生の時も、医師になってからも、自分の持ち場で自分がやるべきことをやるための、心の支えにして生きてきたんです。どんなに負けても負けても、諦めませんでした」

「大洋だけを心に置いてあとは仕事だけ」

 '88年、近藤氏は医師国家試験に合格、京大病院の脳神経外科へ入局。その5年後の'93年、横浜大洋は横浜ベイスターズに生まれ変わった。

 しかしその弱さはそのままだった。医師に成りたての頃の近藤氏は、私生活もなく、脳外科の勉強に勤しんだ。もちろん、心にはいつも大洋があった。

「およそ25年前、僕たちが医者になった頃の脳外科は、今ほど治療法の選択肢も多くなく、開頭手術中心。まだ合理化の途上でした。チーム制というより、医師一人一人の手術技量に患者さんの治療結果が反映されていました。皆『俺が頑張らないと患者が悪くなる』という使命感に燃えていたんです。

 直接人の命に関わりながら、自分の治療で助かる命がある……。楽をしたいとか、自分の生活を楽しみたいとか、あの頃はこれっぽっちも思いませんでした。そんな猛烈な生活が5年ほど続き、球場に行くことは勿論、テレビでもなかなか試合は観られませんでしたが、僕はやっぱり大洋を心に置いてがむしゃらに働いていました。

 日常診療、手術に加え、学会発表、論文執筆、生涯でこれほど激しく働いたことはないと思えるほど、あの頃はがむしゃらに働きました。しかし、やっぱり『思い通りにはならない』のです。どれだけ努力しても、悪性腫瘍や重症脳卒中、治らないものは治らなかった。助けたい命を助けられない。よく何度も死に直面すれば慣れるといわれますが、僕はまったくそうならなかった。働き盛りで一家の大黒柱のお父さんが亡くなったり、可愛い子供が亡くなったり、その度、心がごちゃごちゃになって落ち込み、こういう場所にいることが辛くなってきたんです」

【次ページ】 「研究は、何をしても神様が用意した真実にしかいかない」

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