野次馬ライトスタンドBACK NUMBER
いつも心に“大洋”を!
異能の脳外科医・近藤惣一郎の半生。
text by
村瀬秀信Hidenobu Murase
photograph bySoichiro Kondo
posted2014/02/24 10:40
2月5日、キャンプ地・宜野湾で三浦大輔番長とツーショットをきめる近藤氏。
ラジオに正座、電波を求めて山中へ。
しかし、そこは岐阜という海のない県。長良川にクジラはいない。
そんな環境でマルハが親会社の大洋を応援することは容易ではなかった。試合を観に行けるのはせいぜい年に一、二回。中日球場に家族で出掛けても、一人だけ三塁側へ移動して声をからし、大洋がオープン戦で来る岐阜県営球場には、手製のサインボードを作って持って毎年行くも、憧れの選手たちに声すら掛けられず、いつも白紙のボードをそのまま持ち帰っては胸焦がす少年時代。地元メディアでは、中日戦か巨人戦以外の放送はほとんどなく、遥か川崎のスタンドを心に思いながら、大洋ファンとしては孤独な地下活動を続ける日々。
近藤少年は、大洋の試合がある日はスタメン予想と、各打者の打率変動を計算することを趣味とし、地元中継のある大洋対中日戦、巨人戦は家人に怒られながらテレビやラジオの前で笛を鳴らして応援。ネットや衛星放送もない当時、川崎から遠く離れた地方で、マイナーな大洋の情報を得ることは、今の数百倍困難なこと。中継が無い日は、大洋戦の途中経過を数秒のみ伝える『他球場の速報』を聞きたいがためにラジオにかじりつき、関西や広島で放送がある日には、電波を拾うため、ラジオを持って山の中を彷徨い歩く。
また中日優先のスポーツ新聞の中に、米粒のように小さく書かれた大洋の記事をくまなく切り抜きファイリングしたりと、“大洋”と名のつくものはどんなものでも執念で追い求めた。
その思考、工夫と行動力が、後に近藤氏を京大に合格させ、脳外科医にさせる礎となった。情報収集能力と計算力、壁を突破するべき粘り強さ、孤独に耐えうる忍耐力、その大部分が「大洋ファン」であり続けることによって培われたというのだ。
これぞ、近藤流大洋教育論。教育委員会は是非研究対象に。
「僕が願掛けしても、やっぱり負けるんですよ」
「大洋は少年の僕に、『世の中は努力だけでは、思いだけでは、どうにもならない』ということを教えてくれました。僕が“大洋が勝つように”と願掛けして、物凄く勉強したり、おやつを我慢したり、いい子でいるようにしても、やっぱり負けるんですよ。そりゃ、大洋ですからね。思い通りにならないんです。
でもね、それを貫いているうちに達観してくるんです。たとえば、何故、人は他人に対して腹が立つかを考えていくと、やっぱり他人に期待するからなんですよね。『こんなにしてやっているのに、何でわからないのか!』ってね。だけど僕は大洋を応援してきたことで、子供の時から『人は自分の思い通りにならない』ことを嫌というほど知らされました。
弱い大洋を応援し、見つめ続けました。そして、いつの間にか、勝ち負けでなく、その存在自体を家族のように愛し始めました。見返りは期待しないのです。ずっと信じて応援していると、そんな弱い駄目大洋でも、時に、いい試合をして、巨人や中日、阪神相手に勝って、心から喜ばせてくれることがある。順位ではなく、その一試合、その一勝を、少年の僕は心に刻み続けてきました。その喜びは計り知れないほど大きいんです。
だから、『人には期待しないけど、信じよう』『ダメかもしれないけど……無償の心で最善を尽くそう』と思えるようになりました。僕は『大洋ファン』じゃなかったら、その後、医学の道、脳外科医、美容外科医の道も歩んでいなかったと思うんです」