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いつも心に“大洋”を!
異能の脳外科医・近藤惣一郎の半生。 

text by

村瀬秀信

村瀬秀信Hidenobu Murase

PROFILE

photograph bySoichiro Kondo

posted2014/02/24 10:40

いつも心に“大洋”を!異能の脳外科医・近藤惣一郎の半生。<Number Web> photograph by Soichiro Kondo

2月5日、キャンプ地・宜野湾で三浦大輔番長とツーショットをきめる近藤氏。

「研究は、何をしても神様が用意した真実にしかいかない」

“死”が果たして負けならば、その負けをどのように心の中に落とし込むか――。

 医療現場で野球とは全く違うこの「負け」に答えを見いだせずにいた近藤氏は、母校京大大学院で研究生活に身を投じることになる。時は優勝直前の第一次大矢政権。

「人のくも膜下出血の原因になる脳の血管に出来る脳動脈瘤を、世界で初めて猿やネズミに作り出す実験に成功したグループで、動脈瘤がなぜできるかを研究していました。研究生活で論文を書く生活になって、またちょっと大洋ファンの心の血が騒いできたんですよ。それはね『どれだけ努力してもダメなものはダメ』ということ。

 スポーツなら死ぬ気で走れば走れるし、受験なら寝ずに勉強したらそれだけのものになる。だけど研究の分野はね、寝ずにやろうが何をしようが、神様が用意した真実にしか行き着かない。そこに気づいた時に、所詮人間は努力したって、頑張っても、宇宙の中のこんな小さなところで一喜一憂しているだけなんだと。

 それに気が付いたとき、肩の力が抜けて、僕は僕らしく、人にどう見られるかではなく、自分の価値観で自分らしく、子供の頃のように生きるべきだと思えるようになってきました。どうにもならないこともある。それは子供の時に大洋から教わっていたはずだったんですけどね……」

「あの光景を思うと今でも感動して涙が出てきます」

 どんなに誠実に努力を重ねても、声をからして応援しても、何事もなかったかのように地球は回り続ける。世界から悲しみは消えることはなく、大洋もまた、負けを重ねる。

 近藤氏が忘れていた境地に再び達したその頃、近藤は優勝というものを初めて経験する。

 '98年10月8日。優勝決定の日、近藤氏は何十年ぶりに想い出の甲子園球場を訪れ一塁側イエローシートに腰をおろす。かつて自分が応援団として立っていたあのレフトスタンドを正面に見据えるためだった。

 横浜ファンで溢れ、ブルーに染まる甲子園レフトスタンドの光景……地球が消滅する日までないと思っていた光景が現実のものになり、権藤監督の優勝インタビューが甲子園のバックスクリーンに映し出されていた。宇宙の片隅の小さな場所でのひとつの奇跡に、近藤氏の胸中にはこれまでの諦念と真実、そして運命や感動なんてものが溢れ出し、オイオイと涙したのだ。

「あの光景を思うと今でも涙があふれ出ます。そして、あの'98年の優勝で、僕の人生自体もひとつのステージが終わった気がしました。何か特別の達成感があったんです。

 人の命と向き合いながらぎりぎりで頑張ってきたけど、これからの人生、田舎に引っこんで好きな釣りでもやりながら、自分の人生を楽しみながらのんびり生きようとしたんです。でもね、そんな生活を7年くらいしていると、やっぱり僕は医者なんだ、外科医なんだという思いがわき上がってきたんです。

 ただ、いわゆる“白い巨塔”の組織に縛られる生き方に今更戻る気持ちもなく、自分が自分の責任で、患者を幸せに出来る事はないかと思案したことが、次の扉を開けてくれました」

【次ページ】 考えれば、大洋が近藤氏に何かしてくれたわけじゃない。

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