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<シリーズ 3.11を越えて> 気仙沼発ロンドン行、フェンシングがつなぐ絆。~五輪剣士を育てた街~
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byMami Yamada
posted2013/03/10 08:00
フェンシング向きの勝気な性格を生んだ気仙沼の土壌。
菅原は千田にとって、どうしても欲しい人材だった。地元の中学で体育教師を務める妻・美穂子が教え子の運動能力に太鼓判を押していたからだ。菅原は連日、中学の先輩からの勧誘攻勢にさらされ、入部を決断。千田は入部届けを受理した日を正確に覚えている。
「部活動の登録の〆切、最終日でした」
15歳にして、人生が変わった日である。千田はエリート教育を施し、1年生の菅原をインターハイに同行させたりした。可能な限り、刺激を与えたかったのだ。菅原もそれに応えた。何より勝気な性格が競技に合致していた。
「気仙沼は港町で、住んでいる人たちの気性が荒い。そんなメンタリティが、私も含めてフェンシングには向いてると思うんですよ」
3年生でインターハイの個人戦で2位、その後は日本体育大学に進んだ。卒業後は鼎が浦高の教員となって千田と共に高校生を指導し、現役を続行。28歳でアテネの代表となった。北京では日本の女子史上、最高成績となる7位入賞を果たし、ロンドンでも同じく7位に入った。
「メダルは取れませんでしたが、帰ったときに生徒や気仙沼のみんなが喜ぶ姿を見て、続けてよかったと思いました」
中3の全国大会で太田雄貴に負けて、健太のハートに火がついた。
そして健一が育てた銀メダリストが、息子の健太だ。宮城県のフェンシング界で「千田の息子」といえば注目の的。無理強いするよりも、自発的にフェンシングをやりたいという言葉を待ち、健太が中1になってから本格的なキャリアがスタートした。中学3年では全国少年大会に出場し、ベスト32で敗れた。
「相手は前年のチャンピオンでした。最初はリードしたんですが、逆転されてしまって。でも、その試合に負けたことで、真剣にフェンシングをやろうと火がついたんです」
同い年の対戦相手は、太田雄貴といった。
健太は地元の気仙沼高に進学した。すると2年生の時に父が転任してきてコーチとなり、この時、父子関係は最悪の状態になった。
「主将だったからか、ホメられたことは一度もなかったし、とにかく怒られました。学校の廊下ですれ違っても無視。高2の冬は高校でも、家でも一度も口をききませんでした」