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<シリーズ 3.11を越えて> 気仙沼発ロンドン行、フェンシングがつなぐ絆。~五輪剣士を育てた街~
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byMami Yamada
posted2013/03/10 08:00
高校最後の試合の夜、父がこぼした「ごめんな」。
指導者の父にとっても、苦しい時期だった。
「大人としては、家に帰ったら普通に接すればいいじゃないかと思うんですが、10代の人間にとって、学校と家での態度を切りかえるという器用なことは無理なんですね」
健太にとって、父親である監督に肯定されない日々はあまりにつらく、インターハイで優勝してフェンシングをやめようと思っていた。だが、3年生の時に出場した長崎のインターハイでは、団体は決勝、個人戦は準決勝で敗れた。目の前に立ちはだかったのは、またもや京都・平安高の太田雄貴だった。
高校最後の試合が終わった夜、もう時間も遅くなってから携帯が鳴った。父からだった。
「ふたりだけで、ちゃんぽん食いに行くぞ」
健太は、その時の父の言葉を一言一句、いまも記憶している。
「父は『今までごめんな』と話し始めました。お前を厳しく指導しないことには、他の生徒も納得しないと思っていた。だからもう、これからはお前の好きなようにしていい、と」
北京五輪出場を果たすまでに長足の進歩を遂げた大学時代。
健太は泣きそうになりながら、必死にこらえた。太田に敗れた悔しさも手伝って、大学でフェンシングを続けようと気持ちに変化が起きた。この夜のことを、父は正確には記憶していない。それでも、思い当たる節はある。
「きっと、謝罪したんじゃないでしょうか」
コーチと選手が父と子に戻った瞬間だった。
健太が長足の進歩を遂げたのは、父の母校でもある中央大の2年生になってからだ。
「その頃は、八王子で中大の練習が終わってから、1時間半かけて西が丘の国立スポーツ科学センターに通って練習しました。ずっとそんな生活を続けていたら、どんどん実力がついて、2年の秋に関東インカレで優勝して、シニアのワールドカップとグランプリでも3位。一気にナショナルチームに入れました」
そして23歳で北京オリンピック出場を果たす。だが、ベスト16で金メダルを獲得したドイツのクライブリンクに敗れ、不完全燃焼に終わる。北京の後、親友の言葉もあって、「もうメダルしかない」と思うようになったが、同時にケガも多くなった。ロンドンの出場権を獲得した後も、体調は万全ではなく、本番で一発勝負をかけるつもりでいた。