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<シリーズ 3.11を越えて> 気仙沼発ロンドン行、フェンシングがつなぐ絆。~五輪剣士を育てた街~ 

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生島淳

生島淳Jun Ikushima

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photograph byMami Yamada

posted2013/03/10 08:00

<シリーズ 3.11を越えて> 気仙沼発ロンドン行、フェンシングがつなぐ絆。~五輪剣士を育てた街~<Number Web> photograph by Mami Yamada

1950年代から続く気仙沼とフェンシングの絆。

 気仙沼とフェンシングの絆は1950年代に遡る。本吉町(現気仙沼市)出身で、全日本王者となった名フェンサー、千葉卓朗が父の死去に伴い帰郷し、女子校の鼎が浦(かなえがうら)高で指導を始めたのがきっかけとなった。千葉の教え子からは、東京オリンピックに大和田智子が出場している。

 また、男子校の気仙沼高にもフェンシング部が生まれ、'70年代にはインターハイで団体優勝。'80年のモスクワオリンピックには同高出身の千田健一が代表に選ばれたが、ボイコットによって大舞台に立つことは叶わなかった。'05年、地域の少子化の影響もあってか、鼎が浦高は気仙沼高に統合されて共学となり、今は同じ道場で練習を積んでいる。

 千田健太と菅原を育てたのは、健太の父、健一である。モスクワオリンピックの翌年、長男ということもあって故郷の気仙沼に帰らざるを得ず、25歳の若さで現役引退を決めた。'82年から鼎が浦高に社会科の教員として赴任、フェンシング部の指導に当たった。

父・健一の“足を鍛える”指導哲学が2人を育てた。

千田健一 Kenichi Chida
小5からフェンシングを始め、中大入学後、'80年モスクワ五輪で幻の日本代表に。現役引退後は宮城県で教員をしながら指導を続け、現在は本吉響高校長を務める。

「'84年のロサンゼルスオリンピックでは、後輩が晴れ舞台に立っていました。それなのに、自分は田舎で初心者を相手に教えている。複雑な気持ちでした。でも、その鬱屈した気持ちがモチベーションにつながったんです」

 指導を始めて3年目には全国制覇を達成。以後、インターハイでは鼎が浦高を5回、転任先の気仙沼高を1回、優勝に導いた。もし、千田が気仙沼に帰郷しなかったら、健太と菅原はオリンピックの舞台に立つこともなかったはずだ。健一は自分のキャリアを犠牲にして、次の世代を育てたのだ。

 健一の指導哲学は、徹底的に「足」を鍛えるというものだった。都会ではジュニアから競技を始め、テクニックに秀でた選手が多い。気仙沼では高校から初めて剣を持つ生徒がほとんどで、都会の技術に対抗する手段はフットワークであり、それを鍛えるには泥臭く練習するしかない。頑丈な土台を作ったことで、そこから菅原と健太という傑作が生まれた。

「ある程度の素質と、きちんとした指導力があれば、オリンピックでも戦える選手が育てられることは証明してきたつもりです。日本のトップレベルで戦えそうな素材には、徹底的に基礎をたたき込む。変則では大きく羽ばたかないからです」

【次ページ】 フェンシング向きの勝気な性格を生んだ気仙沼の土壌。

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