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<シリーズ 3.11を越えて> 気仙沼発ロンドン行、フェンシングがつなぐ絆。~五輪剣士を育てた街~
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byMami Yamada
posted2013/03/10 08:00
引退していた女剣士は、教え子たちの期待を胸に現役復帰を果たし、
3度目の大舞台へと挑む。そして幻の五輪代表選手に育てられた若武者は、
励まし続けた親友の声を思い出し、活躍を誓う。
フェンシングと被災地を結ぶ、絆のストーリー。
雑誌Numberに連載中の「シリーズ 3.11を越えて」。
今回は、Number823号より、フェンシングの街に育ったアスリートの物語です。
2011年3月11日、フェンシングの日本代表として欧州を転戦していた千田健太は、ドイツにいた。
朝、トレーナールームに行くと、モニターには震災の様子が映し出されていた。故郷の気仙沼をはじめ、三陸沿岸の町が津波に襲われていた。現実のものとは思えない映像に驚愕し、家なんかどうでもいい、みんな、命だけは助かってくれ。そう願うしかなかった。
幸い、郷里の家族は無事だった。だが、4月下旬、自分にフェンシングの手ほどきをしてくれた父と、実家近くの神社の境内から気仙沼の市街を見降ろしたときは言葉を失った。
「見るも無残な光景でした。これじゃ、フェンシングなんかやってる場合じゃないと思いましたし……」
ちょうどオリンピックに向けて、W杯でポイントを稼がなければならない時期に突入していたが、気持ちが戦闘態勢に入らない。
「試合だけじゃなく、日々の練習でも気持ちが入っていかないんです」
親友を失った千田だが「俺に出来ることはフェンシングしかない」。
瓦礫に埋もれた気仙沼の様子ばかりではなく、小学校時代からの幼馴染みで、陸前高田市の職員だった小野寺諭を失ったことも精神面に影響を与えていた。
「親友でした。身近な人間がいきなりいなくなると、本当に実感が湧かないものなんです。彼は北京に応援に来てくれたし、北京の後も『今度はお前がメダルを取る番だ』と励ましてくれた。だから、また、すぐにアイツと会えるんじゃないかという気がして。受け入れるしかない、でも受け入れられないという気持ちのせめぎ合いが続きました」
ようやく、オリンピックに向けて気持ちが整理できたのは6月に入ってからだった。親友だった小野寺の言葉が甦り、新たな気持ちがこみあげてきた。加えて、震災が起きてから、気仙沼に住む人たちから逆に励まされることさえあった。
「最後に出た結論は、『俺に出来ることはフェンシングしかない』ということでした。故郷に恩返しできるのは、自分がフェンシングに打ち込むことだったんです。こういう状況だからこそ、オリンピックのメダルを持ち帰って、みんなに喜んでもらう、それが自分に出来ることだと再確認したんです」