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<シリーズ 3.11を越えて> 気仙沼発ロンドン行、フェンシングがつなぐ絆。~五輪剣士を育てた街~
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph byMami Yamada
posted2013/03/10 08:00
残り少ない教員生活の中で菅原智恵子は思い悩んだ。
千田がドイツにいた日、アテネ、北京五輪のフェンシング女子フルーレ代表だった菅原智恵子は、気仙沼高校の体育教官室で生徒たちの成績評価をしていた。すると、携帯電話から耳慣れない音が響いてきた。初めて聞く緊急地震速報。数秒後、地面が揺れた。かつてないほどの激しく長い揺れで、「本当に収まるのか?」と不安になるほどだった。
数分後、地震が収まるとフェンシング部の教え子たちの顔が浮かんだ。階段を駆け上がって道場に入ると天井板が崩落していたが、幸い、生徒は無事だった。
実はこのとき、菅原は3月末で高校を退職し、4月1日から日本フェンシング協会のコーチに就任することが決まっていた。しかし、震災後の混乱で心は揺れた。
「フェンシングだけじゃない、教員の生活が好きでした。だから、離任式では生徒に何を話そうかとずいぶん考えてもいました。気仙沼の状況を目の当たりにして、私はこのまま東京に行っていいのだろうかと思い悩みましたが、もう辞表は出していたので、どうすることも出来ません。4月18日になってようやく東京に向かいましたが、生徒にさよならをいう機会すら、奪われてしまいました」
コーチとして招かれたはずが「選手として力を貸してくれないか」。
コーチとして赴いたはずが、数日後にイタリア出身の女子フルーレ統括コーチであるアンドレア・マグロから意外な申し出があった。
「ロンドンオリンピックの出場権獲得のために、選手として力を貸してくれないか」
熟慮の末、菅原は「どこまで出来るか、保証はできませんよ」と答えて、5月上旬からトレーニングを開始した。
瓦礫がうず高く積もる気仙沼を離れた以上、こうなったらオリンピックに出るしかないと思っていた。実戦感覚が戻るまでにはずいぶんと時間を要したが、'12年の3月、ようやく3度目のオリンピック行きを決めた。
「ロンドンに行く前の壮行会で『メダルを取る』と気仙沼の生徒たちに話をしたんです」