自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
自転車好きは鉄道好き?
世田谷線に沿ってゆったり走る。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2010/06/18 06:00
里帰りした芋虫電車の「第二の人生」。
おや、宮の坂の駅前に着くと、古い世田谷線の車両(?)が展示してある。例の芋虫電車だ。
よく見ると世田谷線ではなく「江ノ電の旧車両」なんて書いてある。80形というそうだ。
でも、かつてはやはり、この路線の車両だった。
江ノ電に譲渡された、かつての玉電(玉川電車)車両が、世田谷線になり損ね、江ノ電での役割を終えた後に、再び里帰りしてきた、というわけ。
現在はなんだか子供連れのお母さんたちのための、格好のベンチ、情報交換の場になっているようで、車両内部だけじゃなく、車両前にも若いお母さんたちがたむろしていた。
さて展示車両の横の踏切を越えていくと、巨大な緑地帯が目の前に広がっている。
これが、かの高名な豪徳寺である。
もちろん小田急線の駅名としても有名なんだけど、小田急の豪徳寺駅よりも、こちら、世田谷線の宮の坂駅の方がはるかに近い。というか、もろに駅前。
豪徳寺はなぜ有名かというと、デカい寺というだけではない。ここが「招き猫」の発祥の地だからだ。
豪徳寺といえば招き猫。その由来は?
なに、話は単純で、江戸時代、彦根藩第二代藩主・井伊直孝が、鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかった。すると、この寺に住む猫が、門前で手招きするような仕草をしていたため、奇妙に思い、寺に立ち寄り、和尚を相手にしばし休憩した。
すると、雷雨が降りはじめた。
直孝は「雨に降られず、コレは助かった」と、後に荒廃していた豪徳寺の建て直し資金を寄進したという。
ふーむ、この話の教訓は、和尚側にあるな。
内容は「人生、何が幸いするか分からない」というところだ。
和尚自身もそう思ったからか、この猫が死ぬと墓を建てて丁重に弔い、後日、後世に境内に招猫堂が建てられた。
そこに作られたのが、例の猫が片手を挙げている姿の招福猫児(まねぎねこ)だ。
現在も招猫堂は境内に存在する。行くと、おお、そこにある招きネコネコネコネコ。写真を見ると分かるが、なかなか迫力がある。可愛らしくもあるぞ。これは、確かに願い事が叶う(だろう)。
ところで、その井伊の殿様・直孝の13代後が、かの有名な井伊直弼だ。
幕末に桜田門外の変で殺された、あの直弼。幕末史の中では悪役とされがちだけど、私としては、頑迷固陋な攘夷の志士に一歩も引かず、開国を断行した人だと思っている。
豪徳寺には、この直弼の墓もある。ネコが縁で、豪徳寺は井伊家の菩提寺となったのだ。
これは余談だが、偶然、私は先日彦根にいた。直弼は人格高潔にして才能豊か、勉強家で心優しき人物として、児童公園で銅像になっていた。
幕僚としてというより、日本人として「開国・富国強兵こそ日本が生き残る道」と考えていたという。後から考えると、明治政府のポリシーと同じなのだ。
後に井伊家の館からは、大量の洋書や世界地図など、数々の遺品が発見された。勉強家・直弼の面目躍如たるところだろう。
直弼は「安政の大獄」のプロデューサーでもある。その安政の大獄で処刑された一人が、おお、吉田松陰ではないか。
結局のところ双方、非業の死を遂げた。しかし、そういう人のおかげで、現在の日本がある。その2人が世田谷線を通じて繋がっている。
さて、長くなった。次に行こう。豪徳寺を過ぎると山下。この山下が小田急線豪徳寺の乗換駅だ。だが、豪徳寺の最寄りは宮の坂。
何だかのどかな感じだよ。日傘の奥さん方が通り過ぎていく。