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大相撲の「八百長」って何だ!? ~Number創刊年に載ったコラムを再発表!~ 

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設楽敦生

設楽敦生Atsuo Shitara

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posted2011/02/11 08:00

大相撲の「八百長」って何だ!? ~Number創刊年に載ったコラムを再発表!~<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

「タテマエ」と「ホンネ」が渦巻く融通ムゲな社会。

 プロ野球が人気があり、アマチュアの六大学も甲子園も人々を熱狂させてやまないのは、野球がスポーツとしての面白さを持っているからだ。

 もし相撲が、スポーツであるとするならば、大相撲があれだけファンを持っているのだから、アマチュアの相撲も、当然それに比例して人気があって然るべきだろう。が、現実はまるでちがう。

 角界という、きわめて特殊な運命共同体的社会から、近代スポーツ理論によって、大相撲の勝負を純粋抽出したら、味気のないスープのようなものになってしまう。

 先ほどあげた、北海道庁所属、北海道出身、北の湖ウンヌン、などという相撲が行われたら、面白くもなんともない、単なるマイナー・スポーツになってしまうに決まっている。

 つまり、4チャンネルをひねっておきながら3チャンネルの教育テレビが見えない、と怒るようなものである。近代スポーツというチャンネルと相撲というチャンネルを二つもっていることを、知るべきである。どちらか一つにチャンネルを統合するのは“進歩”でもなんでもありはしないのだ。

 大相撲を、角界という特殊な社会を抜きにして考えると、ほとんど理解できない理由がそこにある。

 八百長といわれるのも、この特殊な社会のなかで考えるとあまり表向きには許されない、そしてそんなにいつもやってはいけない一種の“息抜きの芸”なのだろう。つまりどの社会にも存在する、とくに日本には強く存在する「タテマエ」と「ホンネ」なのだ。ときにガチンコが「タテマエ」になり、八百長が「ホンネ」になり、その逆もまたありうる融通ムゲな構造なのである。

 それは、日本のあちこちの集団にさまざまなかたちで見られる“ゆとり”“遊び”の部分でもある。

 もし、この“息抜きの芸”を許さないために、相撲社会をつぶすというなら、それは、相撲ファンとしては反対しなければならない。

大相撲は子孫に残すべき“生きている歴史的遺産”である。

 いまさらいうまでもなく、本当の相撲ファンならば知っている、あの国技館(あるいは他の本場所)での、いうにいわれぬ相撲観戦の雰囲気、そしてきたえられた巨大な身体がぶつかりあう息づまる瞬間、それらを失うのは、あまりにも惜しいからである。

 なにもかも知り尽している(つまりいうところの八百長も)、何十年も相撲を見てきている相撲通がかつてこう語っていた。

「一場所通っていて、三番、想い出に残るような取組みをみればそれで満足。むろん、あきらかに八百長と思われる勝負は、終ってからしばらくの間は想いだすのも不愉快ですけどね」

 そうなのである。100キロ以上の巨大な、みがき抜かれた肉体が、信じられぬエネルギーでぶつかりあう美しさは、やはりいつまでも胸の底にきざまれて残っている。

 いまの時代、われわれの周囲に、あれほど緊張した美しい瞬間を与えてくれるものが、ほかに多くあるだろうか。

 そして、近代スポーツが入る以前の、あれだけはなやかな“技芸”を──それは歴史的興味もじゅうぶんに刺激してくれる──目の前で見せてくれるものが他に残っているだろうか。

 大相撲には、われわれが子孫に残さなければならない“生きている歴史的遺産”といった面が色濃くある。

 しかも、歌舞伎や能などとやや異なって、それはいつも新しい血が注入されている大衆的な技芸である。

 以上、くだくだしく述べてきたことは、八百長問題、ひいては「国技」大相撲に対する「ナンバー」の考え方である。これこそが「正解」と言い切るつもりはない。むしろ、大相撲にある一つの角度から光をあてたにすぎない。いろんな考え方があって然るべきだ。様々な光を当てることが、大相撲をより豊かに、より愛されるものへと発展させていくのだ、と信ずる。

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