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巨人・堀内監督vs清原和博の不仲「清原が泣いた日」まさかのハイタッチ拒否事件、3週間後の戦力外通告「“史上最悪80敗”堀内巨人の終わり」 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph byJIJI PRESS

posted2025/04/27 11:04

巨人・堀内監督vs清原和博の不仲「清原が泣いた日」まさかのハイタッチ拒否事件、3週間後の戦力外通告「“史上最悪80敗”堀内巨人の終わり」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2004、05年と巨人を指揮した堀内恒夫監督。写真は2005年2月、髭を剃らずにキャンプインした

 8月13日には球団の方針で一軍登録抹消。左膝手術で入院する前日の8月29日に来季戦力外を告げられ、少年時代から憧れ続けた巨人軍での9年間は終わりを告げた。解雇を言い渡された帰り道、外苑前のイチョウ並木に停めた車の中で、38歳の清原は夢の終わりを悟り、ハンドルに顔を伏せ泣いたという。

 その頃、巨人次期監督の候補に阪神の星野仙一シニアディレクターが報じられるなど、堀内巨人はすでに終戦ムードだった。巨人OB陣の強い反対もあり、9月10日に星野本人が阪神残留の意向を示すと、原辰徳の再登板が決定的に。東京ドームの外野席には、「辰徳ジャイアンツ!!夢の続きを見せてくれ!!」という横断幕が掲げられ、日本テレビは10月の巨人戦ナイターの地上波中継を取り止めたことを発表する。この年、巨人戦の年間平均視聴率は史上最低の10.2%まで落ち込んでいた。

若手サウスポーの謝罪「200勝投手のオレを信頼しろ」

 そんな四面楚歌の状況に追い込まれ、契約を1年残しながら、堀内監督は9月21日に滝鼻卓雄オーナーに辞意を伝え、2005年10月5日の広島戦が最後の指揮となる。5位に沈む巨人にとってすでに消化試合だったが、堀内監督は自身ラストゲームの最終回に、ひとりの若手サウスポーを東京ドームのマウンドへ送った。

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 当時2年目の内海哲也である。この年の内海は4月にプロ初勝利を挙げるも、その後失速して6月以降は勝ち星なし。4勝9敗、防御率5.04という成績にもかかわらず、堀内監督は結果の出ない内海を一貫して先発で使い続けた。最後の試合後、23歳の内海はチャンスを貰うも、結果を出せなかったことを申し訳なく思い指揮官の元に謝罪へ向かった。すると、堀内監督から、こんな言葉をかけられたという。

【次ページ】 あの“80敗”はムダだったのか?

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