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巨人・堀内監督vs清原和博の不仲「清原が泣いた日」まさかのハイタッチ拒否事件、3週間後の戦力外通告「“史上最悪80敗”堀内巨人の終わり」
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中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byJIJI PRESS
posted2025/04/27 11:04

2004、05年と巨人を指揮した堀内恒夫監督。写真は2005年2月、髭を剃らずにキャンプインした
「謝る必要なんてない。俺はお前に夢を見たんだ。巨人軍を再建するには、若い柱が絶対に必要だ。お前にはその素質がある。自信がないだって? そんなことは当たり前だろう。なんの実績もないヤツが、自信なんて持てるわけがない。お前は自分を信頼する必要なんてない。200勝投手の俺を信頼すればいい。お前にはすごい素質がある。俺が言うんだから間違いないよ」(プライド/内海哲也/KADOKAWA)
なお、2005年のチーム最多勝投手は11勝を挙げた42歳の工藤公康だった。チーム再建のためには、世代交代しかない。ある意味、堀内監督は未来のために、今を捨て、内海に懸けたのだ。去りゆく堀内の激励に涙を流した内海は、やがて投手陣をまとめるリーダーとなり、原巨人の2度の三連覇にもエースとして貢献する。
あの“80敗”はムダだったのか?
堀内巨人の2シーズンの通算成績は、133勝144敗7分。2005年の年間80敗はいまだに球団ワースト記録である。結果だけを見れば惨敗だが、球界再編問題や、巨人一極集中時代が終焉した球界のシステムの変わり目に、いわば捨て石となり指揮を執ったのが、堀内恒夫だった。なお、2004年の12月、堀内は極秘で大腸がんの手術を受けている。文字通り、体を張っての巨人再建である。
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あれから20年――。当時、若手選手だった阿部慎之助が令和の巨人軍で監督となり、43歳の内海は投手コーチを務めている。亀井善行打撃コーチも2005年の堀内監督時代にデビューしたひとりだ。栄光とは無縁だったが、あの2年間は決して無駄ではなかった。今振り返れば、堀内巨人は“暗黒期”ではなく、チームが未来に進むための“転換期”だったのである。
