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「涙は出なかったです」箱根駅伝で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が明かす「12年前の悪夢」 大エース擁した名門が“40年ぶり”予選落ちのナゼ 

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小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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posted2025/01/07 11:00

「涙は出なかったです」箱根駅伝で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が明かす「12年前の悪夢」 大エース擁した名門が“40年ぶり”予選落ちのナゼ<Number Web> photograph by KYODO

大学2年の箱根駅伝「花の2区」で17人抜きの区間賞&大会MVPも獲得した村澤明伸(左)。一方、主将を務めた4年時は40年ぶりの予選落ちという憂き目に

 3年時も同じ2区で4人抜き区間3位と好走したが、それすらかげが薄いのはこの2年目の爆走があまりにも衝撃的だったからだろう。

 あの当時、村澤はこんな思いで箱根路を駆けていたという。

「プレッシャーというのが全然なくて、もう単純にどこまで行けるんだろうって。とくに下級生の頃は箱根駅伝も個人戦に近い感覚と言いますか、もちろんチームとしての目標もあったんですけど、それよりも自分に与えてもらった区間でどんな走りをするか、そこに重きを置いていたような気がします」

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 佐久長聖高の頃から、村澤は世界ユース選手権や世界クロカンなど、国際大会でも活躍をしてきた。大学2年の夏は世界ジュニア選手権に出場して、5000mで8位入賞を果たしている。国内の大会にとどまらず、世界を相手にどこまで行けるのか、そんなワクワクした思いが走ることの原動力だった。

大学3年時、日本代表としてアジア選手権に出場

 大学3年になると、より上を目指したいという思いが加速する。春先のレースで1万mの自己ベストを28分00秒78に更新すると、6月の日本選手権では並みいる実業団選手を相手に2位と健闘。アジア選手権の日本代表に選ばれると、ここでも積極的な走りで3位に入った。

 くしくもこの年、高校の恩師である両角速が佐久長聖高を辞めて、東海大の駅伝監督に就任していた。村澤の気持ちの中では、こんな変化があったという。

「大学に入ってから、新居(利広)監督にご指導いただき、そこでは自立心を養っていただきました。また3年目に両角先生に代わって、高校の時のようにしっかりと目標設定をしていただいた。両方が掛け合わさったのが3年目以降だったかなと思います」

【次ページ】 村澤が覚え始めた「違和感の正体」

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