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「涙は出なかったです」箱根駅伝で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が明かす「12年前の悪夢」 大エース擁した名門が“40年ぶり”予選落ちのナゼ
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byKYODO
posted2025/01/07 11:00
大学2年の箱根駅伝「花の2区」で17人抜きの区間賞&大会MVPも獲得した村澤明伸(左)。一方、主将を務めた4年時は40年ぶりの予選落ちという憂き目に
9月にはイタリアの大会で5000mの自己ベスト(13分34秒85)をマーク。翌年のロンドンオリンピック出場が明確な目標として視野に入ってきていた。周りから見れば順調そのものだったが、村澤はこの頃からちょっとした違和感を覚えるようになっていた。
村澤が覚え始めた「違和感の正体」
「日本選手権を経てからですかね。今までみたいにどこまで行けるんだろうっていうよりも、明確な目標があって、そこに自分を合わせていくという風に変わった気がします。それって選手としては当たり前のことなのかもしれないですけど、それまで自分の感覚メインでやってきたのが、少しずつタイムであったり、距離であったり、そういったものに置き換えられていった。この練習をしたいではなく、しなければいけないっていう風に、もしかしたら気持ちの面で変わっていたのかもしれないです」
成長曲線は変わらず上を向いていたが、気持ちの面ではプレッシャーを感じ始めていた。4年生の春にはカージナル招待(米)で1万mの自己ベストを27分50秒59(当時の日本人学生歴代4位)にまで伸ばしたが、五輪参加標準記録Aの27分45秒00には届かず。あと5秒タイムを縮めるために何をすべきか、そう考えざるを得なくなっていたのだ。
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五輪の選考がかかった日本選手権は10位と奮わず。オリンピック出場は次の機会に持ち越された。それでも、村澤のスケジュールは過密だった。
最上級生となり、監督から主将に任命されたが、チームの練習にはほとんど帯同できず、6月の全日本大学駅伝関東予選会も欠場した。村澤はその頃、スイスを中心にヨーロッパのレースを転戦中で、予選通過の吉報も電話で聞くしかなかった。
日本に帰り、短い休暇を取ると、7月の終わりから今度は実業団の合宿に参加。そして8月に入ってようやく、東海大が夏合宿を行う紋別(北海道)でチームに合流した。
悲劇が起きたのは、その合宿中のことだった。
<次回へつづく>