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セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
「便器にトト…用足せねえよ!」磐田でボヤき、ドゥンガと釣り…スキラッチの“日本批評”はド直球だった「ヤナギサワの評価? 点取ってからだ」
posted2024/09/29 17:03
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph by
Getty Images
日本に着いてすぐ、サッカーへの熱を感じた
「日本に着いてすぐ、人びとのサッカーへの熱を感じた。ここの人たちにとって、たとえ4年が過ぎていても“W杯得点王スキラッチ”はまだ死んじゃいなかった。俺はそれをゴールで証明しなきゃいけない。そう思った」
94年4月、熱狂のJリーグ黎明期にスキラッチはジュビロ磐田へ移籍してきた。
黄金時代のセリエAから直輸入された大物外国人プレーヤーの1人だったが、本人にしてみれば、インテルでの不遇やW杯未出場の国へ都落ちかと揶揄する母国イタリアの声を振り切って、一大決心で飛び込んだ未知の国への挑戦だった。
鳴り物入りのイタリア人初Jリーガーだっただけに、御大尽待遇が用意された。豪華邸宅に運転手付き高級車、通訳サービスは24時間体制と至れり尽くせりだ。
「ところが、いざ浜松に着いてみたら視界にあるのは(ヤマハの)工場ばかり。絶望しそうだった」
生前、裏表のない男だと評判だった彼は母国メディアに正直な言葉を残している。
日本食にはなかなか馴染めなかった。月に2度、本国から送られてくる食料品やイタリア映画のVHSビデオの詰まった小荷物が救いだった。
シチリア島育ちの男は海にも癒やしを求めた。
「せっかく釣っても魚の名前が全然わからないんだよ!」
こうボヤきながら、チームの主将ドゥンガを誘って釣りを楽しんだ。
死去に際し、当時の代理人が『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙に語った逸話は傑作だ。
来日して間もなく、気落ちしていたスキラッチがトイレへ入った。数秒もしないうちにトイレから飛び出してきたと思ったら、さっきまでの寂しげな顔はどこへやら大笑いしている。
「便器を見たら、俺の名前(※トト=TOTO)がそこら中に書いてある! こんなの笑わずにいられるか、うまく用を足せねえよ!」
異国暮らしには苦労しても、仕事はきっちりこなした。日本での4年で65ゴールも決めたし、97年にはJリーグ優勝も果たした。
“イワタを愛していた”という薄っぺらな言葉ではなく
サックスブルーのユニフォームを着たスキラッチを覚えている人なら、彼が本物のプロ・ストライカーだったとわかるはずだ。