甲子園の風BACK NUMBER
大谷翔平“史上初の高校生160キロ”を見た男・鈴木匡哉の回想「仮想・大谷の170キロのマシンより…」それでもバットを短く持たなかった
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byKatsuharu Uchida(L)/JIJI PRESS(R)
posted2024/08/22 11:03
2012年の岩手県大会、大谷翔平が高校生史上初めて160キロのボールを投じたときに打席にいた一関学院高校の鈴木匡哉さん。現在は福岡県の香椎駅で駅員として勤務している
このすれ違いがなければ、「あの1球」を体感することはなかっただろう。だから、人生は面白い。
一関学院は、鈴木さんが1年時の2010年夏の甲子園に出場(鈴木さんはベンチ外)するなど、岩手2強の花巻東、盛岡大付にひけをとらない戦績を誇っていた。しかし、鈴木さんが最上級生となり、エースとして初めてベンチ入りした2年秋からの新チームは、周囲から「弱い」と言われ続けてきた。
「花巻東か盛岡大付、そして一関学院というように、その2校と甲子園をかけて戦うということが、それまでは“マスト”でした。ただ、僕らの代は弱いと言われていて、そこでスイッチが入りました」
「仮想・大谷」に170キロマシンを導入
花巻東のエースとして2年夏の甲子園に出場した大谷は150キロを計測するなど、順調に成長していたが、左足骨端線損傷の影響で、新チームとなった2年秋は登板せず、野手で出場。一関学院は、岩手大会決勝で花巻東と対戦し、鈴木さんが先発完投も、0-6で敗れた。
「大谷選手には打たれているイメージしかありません。フォアボールでもいいやと思っていて、ボール球を振ってくれたり、打ち損じてくれたらよしという感じで戦っていました。それでも、2年秋はボール球の変化球をライト前に打たれました。大谷選手は当時、全国的には投手の方が凄くて、打撃はあまりと思われていたところがありましたが、同じ県で戦って、ずっと見ていた僕たちからすると、打撃もスケールが違いましたね」
秋の段階では「投手・大谷」の対策はしていなかったが、ケガから回復するであろう夏は、投打で一関学院の前に立ちはだかることは容易に想像できた。そこで2年冬、チームで「トップガン」と呼ばれる世界初のエアー式投球マシンを購入した。バズーカ砲のような見た目から、直球のほかにカーブ、シュート、フォーク、パーム、ナックルなど、多彩な変化球を操ることができ、球速も70~170キロまで調整することが可能。リミッターを解除すれば、300キロまで出せるという。その秘密兵器を「仮想・大谷」に見立てて極寒の真冬に打ち込み、スピードを体に覚え込ませた。
「空気砲みたいな感じで、とんでもなかったです(笑)。めちゃくちゃ速かったですね」