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大谷翔平“史上初の高校生160キロ”を見た男・鈴木匡哉の回想「仮想・大谷の170キロのマシンより…」それでもバットを短く持たなかった
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byKatsuharu Uchida(L)/JIJI PRESS(R)
posted2024/08/22 11:03
2012年の岩手県大会、大谷翔平が高校生史上初めて160キロのボールを投じたときに打席にいた一関学院高校の鈴木匡哉さん。現在は福岡県の香椎駅で駅員として勤務している
高校卒業後は、社会人野球のJR九州へと進み、直球の最速も137キロから144キロまでアップ。3年目には先発陣の一角を担うなど、大谷が活躍するプロの舞台に手が届く位置までこぎつけた。
ただ、4年目の2016年冬、投球練習中に左肘内側側副靱帯を損傷し、保存療法で1年間をリハビリに費やした。復帰後も思うような投球ができず、2019年秋の日本選手権では、リリーフで被弾し、わずか3球で降板。試合後、野中憲二監督(当時)に引退を申し出た。
「野中監督からは『プロに行くことが全てじゃない。もう少し頑張ってみないか』と声をかけていただきました。辞めるタイミングは正直ほかでもあったのですが、野中監督にそういういった声をかけてもらって、ちょっと変わりましたね」
そこからは「自分がやれるパフォーマンスをする」ことに徹した。フォームを横手投げに変え、左打者のワンポイントとして生きる道を選択。結果も出始めた。試行錯誤の末に辿り着いたポジションは、自らが望んでいたものとは違っていたのかもしれない。ただ、あの時ユニホームを脱いでいれば、見ることのできなかった景色だった。2022年まで現役を続け、所属10年を区切りに、引退を決断。もう、後悔はなかった。
「対戦はしたことあるよ」と言います(笑)
「肘があまりよくないというのもありましたが、社会人で10年やれたというのは、僕からしたら考えられないことで、やりきったまではいかないですけど、十分やれたかなと思っています」
挑戦することの尊さは、大谷から教えてもらった。仕事前には、海の向こうで活躍するかつてのライバルの結果を確認してから、駅に出るのがルーティンとなっている。
「あんな凄い選手と同じ県の、同じフィールドでプレーしていたというのは、自分の財産です。メジャーでも挑戦する姿はカッコいいですよね。日本人の誇り、別格です。陰ながら応援させてもらって、励みになっています」
将来的には指導者として野球に貢献したい思いもある。「大谷選手のことを聞かれたら、『対戦はしたことはあるよ』と言います(笑)」。160キロに見た夢の続きは、まだ先にある。鈴木さんだからこそ伝えられることが、きっとある。