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高校サッカーPRESSBACK NUMBER
「隠れてトイレの水を飲んだ」低迷していた名門校…帝京高サッカー部“最後の優勝主将”が明かす、昭和の根性練習「フルマラソンでも水飲み禁止だった」
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byKYODO
posted2024/06/03 17:05
1992年1月の高校サッカー選手権。四日市中央工高と同時優勝し、優勝旗を受ける帝京高キャプテン・日比威
「わざとボールをトイレがあるグラウンドの隅っこに蹴っ飛ばすんですよ。隠れてトイレの水を飲みました。夏は菅平に合宿へ行くんですが、そのときは川へボールを蹴り入れて、川の水を飲んだ。中学生のときにテレビで目にした高校サッカーの華やかさは何ひとつありませんでした」
実は中学時代、日比は真逆の環境でサッカーをしていた。ラモス瑠偉や与那城ジョージがいた読売クラブのジュニアユースでプレーしていたのである。だが、選手権のテレビ中継に憧れ、帝京高校へ進学する道を選んだ。それだけにショックが大きかった。
「読売クラブ時代は遊び球で相手を操り、相手の体力をそいでゴール前へ侵入するサッカーをしていました。それに対して帝京は遊び球はゼロで、ボールを奪ったら一直線にゴールへ向かう。しまいには私自身、試合に勝っても『全国からいい選手が帝京に集まり、他校がただ弱いだけなのでは』とひねくれた発想になっていました」
「授業中に寝たら罰走」
チームにおける昭和的な特殊ルールはあげたら切りがない。たとえば挨拶をできなかったり、教室の掃除をサボったりしたら、約1週間チーム練習への参加が禁止され、罰走を科された。
体育会系的な上下関係もあった。学食で先輩がいたら後輩は立ったまま食事をしなければならず、クレープやお好み焼きが置いてある売店に下級生は行ってはいけなかった。
そして何と言っても現代と異なるのは、練習時間とその中身だろう。
当時は朝練が6時半にスタートし、8時までトレーニング。放課後は16時半から18時半までAチームの練習があり、その後に筋トレやランニングを行う。ボール磨きなどの片付けがあるため、学校を出るのはだいたい20時か21時だった。
「僕は家が比較的近かったので、帰宅は22時くらい。翌朝は4時に起きるので、睡眠時間は4、5時間くらいしかありませんでした。それでも授業中に寝たら罰走なんですよ(笑)」
「フルマラソン走れないやつは、PKを決められない」
長時間練習の極めつけは、長野県・菅平高原の夏合宿だった。
「菅平合宿は、朝から晩までほぼ練習でした。たとえばダボスの丘という約2kmのスキー場があって、下から上へダッシュを繰り返すんです。本数は8本から10本くらいですかね。先生の気分によってスタート地点が変わりました。
そして菅平合宿では、フルマラソンを走るのが恒例行事でした。それも42.195kmではなく、45kmくらいのね」