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「まるで芸術品」「ゾクッとしました」20歳の武豊が初めてダービーを意識した“消えた天才”…脚にボルトを入れた“不屈の名馬”が復活するまで
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byYuji Takahashi
posted2024/05/23 11:40
1989年11月、20歳の武豊を背にデビュー3連勝を決めたヤマニングローバル。しかしこの直後、右前第一種子骨の複雑骨折という悲劇に見舞われた
脚にボルトを入れながら復活…讃えられた陣営の手腕
ヤマニングローバルは、旧5歳時、1991年の洛陽ステークスで1年2カ月ぶりに復帰し、4着。復帰8戦目まで武が騎乗していたが、次走からは別の騎手が乗り、復帰10戦目の91年アルゼンチン共和国杯(横山典弘が騎乗)で2年ぶりの勝利を挙げ、翌92年の目黒記念(河内洋が騎乗)も優勝。脚にボルトが入ったままでの復活は話題になり、浅見の管理能力と、持ち乗り調教助手・井義信の手腕も大いに讃えられた。
ただ、そのころ武の中・長距離のお手馬にはメジロマックイーンがいたため、なかなかこの馬に乗る機会はなく、復帰9戦目以降は1993年のマイルチャンピオンシップ(10着)、翌94年の平安ステークス(8着)に騎乗しただけだった。
ヤマニングローバルは94年の阪神大賞典で10着に終わったのを最後に現役を退き、種牡馬となった。
しかし、種付け頭数は毎年ひと桁にとどまり、これといった産駒を残すことはできなかった。サンデーサイレンスをはじめとする輸入種牡馬の全盛期だったことに加え、GIの勲章がなかったことが、良質の交配相手に恵まれない要因になったと思われる。
言ってもせんないタラレバではあるが、怪我をせず、クラシックをひとつでも獲ることができていれば、種牡馬としての将来は大きく変わっていただろう。そうなれば、トウショウボーイの父系は、今もつながれていたかもしれない。
<つづく>